糸の切れた凧になった気持ち
「糸の切れた凧」という表現がある。
最近あまり聞かなくなったが。
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思い出すのは「寅さん」である。
とは言ってもなんとなくのイメージなので、「第何作目のどのシーン」とかはまったくわからない。
もしかしたらそれは私の単なる思い込みで、「寅さん」の中でこの言葉が使われたことなど一度もないかもしれない。
だとしたらかなりの思い込みだ。
とにかく「糸の切れた凧」という言葉は、映画の中で「自由気まま」というポジティブな意味と同時に、
「無責任」とか「計画性がない」とか「コントロールが効かない」といったネガティブな意味も込めて使われていた気がする。
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私がこの言葉を急に思い出したのは、自分自身が今そんな気持ちになっているからだ。
「そんな気持ち」とは、「糸の切れた凧の気持ち」である。
それも、ポジティブな意味で。
そのポジティブな意味の中でも私が特に気に入っているのは、
「どこにも属していない感」である。
さらに言うと、
「元々は属していた。誰かのものだった。以前は誰かにコントロールされていたが、今は誰にも操られていない。」という開放感である。
これは、元々自由だった人にはわからない感覚であろう。
しかも、風に乗って飛んでいく凧(昔は時々目にしたものだが。)には決して
「必死さ」がない。
目的地もなければ、渡り鳥のように「子孫を残すために生き抜かなければ」という義務感もないのだ。
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凧は、遊びのツールである。
「おもちゃ」と言い換えてもいいだろう。
しかし、同じくおもちゃ(玩具)である人形やビーチボールのように、その持ち主から離れ、忘れ去られたとしても、不思議と「寂しい感じ」がしないのだ。
これは私の個人的な意見かもしれないが、
持ち主から離れて風に乗って飛んでいく凧を見ると、むしろ
「自由になれて良かったねー!」
と祝福の言葉さえ送りたくなる。
♡♡♡
それでふと思い出したのだが、凧の糸が切れるのはどういう時か、ということ。
「凧の糸が切れる時」というのは、凧を上げるのに最適な風が吹いている時、風を受けてどんどん空高く上がっていくにつれ、凧が糸を引く力が強くなり、持ち主がその力に耐え切れなくなった時である。または糸をすべて出し切ったにも関わらず、風を受けて力強く飛び続ける凧を手繰り寄せることができなくなった時である。
つまり、凧が持ち主に勝ったわけだ。
これはどう考えても、「祝福」💐であろう。
だから私には、一人でふわふわと飛んで行く凧の姿が、どこか誇らしげに見えるのだ。
まるで
「これからは好きにさせてもらいまーす!」と言っているようにも見える。
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「寅さん」の映画の中ではその「どこにも属していない感」がどこか悲しげでもあり、孤独感も表現していたように思う。なぜなら、みんな(映画の中でも世間でも)
「寅さんはいいよねー。自由気ままで。」と口では言いながらも、誰も寅さんを目標にしてはいなかったからだ。
映画全体から受け取るものとしては「孤独な男の悲哀を描いた物語」という一面がかなり大きな要素となっていたし、そこがまた映画の魅力でもあったのだ。
当時は 「糸の切れた凧」➡「無計画なその日暮らし」➡「まっとうな人生は送れない」➡「孤独死」という連想ゲームが勝手に人々の頭の中で繰り広げられ、
「そうはなりたくないものだ。くわばらくわばら。」的な結論が導き出されていたのだろう。
だから、子どもたちにはとにかく大学を卒業させて、どこかある程度大きな会社に就職させたいと願う親が多かったのである。
働き者のアリは偉いのか?
🐜
そこでまた思い出したのが、「アリとキリギリス」の童話である。
これは明らかに「働き者のアリ」を推奨するのが狙いだった。
つまり、「キリギリスのように遊んでばかりいると痛い目を見るよ。」という教訓である。
ある意味「プロパガンダ」と言ってもいいかもしれない。
私は少し前からこの童話のことが頭の隅に引っかかっており、一度深く掘り下げてみたいと思っていた。
そのためにはまず原作を読み直したり、前述のような「教訓」という解釈以外に作者が伝えたかったものはないのだろうかと資料を調べたりしてから、十分に根拠のある研究結果を発表しなければいけないと考えていたのだが、そんなことはもうどうでもいい。
当時その童話を読んで育った大人が今どう感じているか、が重要なのだ。
そう。「今どう感じているか」。
この令和の新時代に至っても、「働かざる者食うべからず」という観念は根強く残っている。と言うか、
「働かないで生きていけるわけないでしょ。」と思っている大人は多い。
この古い観念を覆すためには色々と面倒なので、またの機会にするとして・・・。
「糸の切れた凧」の話に戻ろう。
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糸の切れた凧の行く末。
「糸の切れた凧」はどうなるだろうか。
まず、風に乗って飛んで行く。
どこまで飛んで行くかはわからない。
凧の到着する場所は、隣町かもしれないし、県境を越えていくかもしれないし、沖縄の離島まで飛んで行くかもしれないし、海に落ちて海流に乗って、インド洋あたりまで流されていくかもしれない。
糸が切れた持ち主のない凧は、最後は「ゴミ」となる。
和紙でできた凧など今はほとんどないだろうから、たいていはビニールの凧である。
ビニールの凧がゴミになれば、これは環境汚染ということになる。
クジラや海鳥が間違って飲み込んだりすれば、命を奪うこともあるだろう。
私たち人間は、地球に共存するものとしてすべての命を尊重することが必要である。
だから、これからすべての凧は和紙で作って欲しい。または土に還る素材で。
つまり、何が言いたいのかというと、「凧」として生まれたものは、その役目を終えた後でも祝福されたいのだ。もう空は飛べなくなったとしても。
🌍️
地球に生きるすべての命は土に還り、また新しい命として生まれる。
生まれる時と同じようにその命を終える時もまた、祝福されるべきなのだ。
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「糸の切れた凧」は決して悲しくも寂しくもない。
むしろその生涯を普通の凧よりもずっと楽しむことができるだろう。
持ち主に大事にされるのもいいが、
凧にとっての「幸せ」は何より
「空を自由に飛ぶこと」なのだから。
♡♡♡最後までお読みいただき、ありがとうございました。あなたの幸せのヒントが見つかると嬉しいです^^!いっっぱいの愛をこめて。♡♡♡
桑田華名
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