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【短編連載】夢魂・9終

 どれくらい、感情の洪水に飲み込まれていたのか。重い瞼を上下させ、睫毛から落ちた涙が頬を伝う感触をぼんやりと知覚する。視界に入るのは、私の両手に包まれた親友の右手。
 とてもあたたかいその手を、離したくない。この体温を、まだ信じていたい。

 ずしりと重い頭でぼんやりと考える。ここ最近こそ連絡を取っていなかったけれど、年末に旅行の約束をしていた。互いに忙しい生活だけれど、ここだけは空けておこうと約束したのは、いつだったろうか。
 まだ先の話だからと計画を詰めることもしていなかったけれど、手帳にはしっかりと予定として書きこまれていた。数ページ先を開くことは少なくても、「旅行」の文字を目に入れる度に楽しみは募った。
 親友と旅行に出かけるなんて、それこそ卒業旅行以来だった。互いに住む場所も、生活スタイルも違って、気軽には会えない。それでも、彼女はこれから先の人生においても、間違いなく最大の理解者で、最高の親友だと思えた。お互いにそうであると、分かっていた。
 私の人生は、物語の主人公のような波乱万丈に満ちていたり、奇想天外な出来事に直面したり、というものでは無い。育った家庭も、歩んできた道も、趣味嗜好も。自分にとってはかけがえのない大切なものであるけれど、それと同時にそれがありふれたものであるとも分かっている。
 そんな平穏な幸福の中で、親友と出会えたことは本当に幸せなことだ。人は一人で生きていくことも出来るけれど、自分の絶対的な味方、それも家族や血縁といった生まれ持った関係性以外にそんな人と出会えたことは、幸福以外の何物だろうか。
 まだ人生の折り返し地点にすら到達していないと、思っていた。これから先の人生、例えば互いに結婚をしたり、職を変えたり。訪れるであろう出来事を、時に幸福で、苦渋で、ありふれて。たまに会っては報告しあって、笑いあって、互いの応援をする。そう、信じて疑わなかった。

 そっと手から力を抜くと、親友は手を戻すことなく、ぽとりと机に置かせた。無防備に置かれたその手に、縋りつきたい。
 でも、そうでは、ないだろう。

「階段から落ちて、そのまま…?」

 久しぶりに発した自らの声は掠れて、鼻声で、ひどいものだ。散々しゃくりあげた喉は少し震わせるだけでヒリヒリとした痛みが走る。でも、今はそんなものは些末なことだ。

「ううん。正確には、意識不明が続いている。でもさ、何でだろう。タイムリミットも、知ってるんだ。」
「タイムリミット…」
「そう。こうやって夢の中で話が出来るのは、本当に神様からの最後のご褒美なんだって。」

 一体どんな顔で「期限」の話をしているのか。見ることなんて出来なかった。諦めたように笑う顔も、寂しそうな瞳も、見てしまえば縋ってしまう。追い縋って、離せなくなる。

「一昨日電話したって言ってたけど、それはどんな仕組みなんだろう。私の意識ではこの夢以外で話ができないし、意識が戻ってはいないし。」
「電話でさ、怖い夢なんじゃなくて怖い覚醒なだけだから、怖がらないでって言われた。」
「あー。最初の5日は話している途中で目が覚めたりして、怖い感覚が残っちゃったんだね。怖がらせてごめんね。」

 違う。謝ってほしいのではない。泣いたことで鈍っている頭では、うまく言葉を見つけられない。ただ強くかぶりを振る。

「そうじゃなくて、怖い夢じゃないって言われたから、だから、怖くなくて、」

 自分でも何を言っているのか、分からない。何が言いたいのかも、見失いそうだ。

「だから、今日は落ち着いて話を聞いてくれたってことなのかな。」

 分からない。分からない。
 でも、あの覚醒時の恐怖の正体はもう分かっていた。今もこの夢の内容が怖いのではない。喪失することが、怖いのだ。胃に大きな空洞が巣食って、胸の中に暗く重いものが詰め込まれ、血が凍りつくように、失うことを恐れている。
 今だって怖い。夢から現実に戻ることが、この時が消えることが、怖い。
 その恐怖心は小さくなることも慣れることできない。でも、あたたかな手で触れてくれたから。優しい声をかけてくれたから。ぎりぎりのところで受け止められている。

「ねえ、下ばっかり見ないでよ。」

 声の軽さに、胸をつかれた。話の流れにも、場の空気にも合わない、笑いすら滲む軽やかな声。そのあたたかさが、じんわりと身体に入って来る。
 こちらに伸ばされるように置かれた右手から腕を辿り、ゆっくりと視線を上げる。見慣れない、髪をまとめた姿。やつれたように頬が少し丸みを失っている。乾燥しやすいからといつも手入れをしていた唇は緩やかな笑みの形。
 真っ直ぐに芯を持って立つ彼女の生き方を映しているように強い瞳は、やはり澄んでいて、濁りなんて無い。ただ、僅かな寂しさがちらついている。

「何でこうやって話が出来るのか、分からなくて初めは戸惑った。でも、せっかく話が出来るなら、何を伝えたいか考える様にした。
 報告できていなかったことを話したかったし、旅行に行けなくなったことを謝りたかった。
 でも、一番に話したいのはそうじゃないんだ。」

 あんなに見られないと思っていた親友の顔から、視線を逸らすことが出来ない。早すぎるタイムリミットを迎えることへの怨情など全く浮かんでいなくて、ひたすらに穏やかだった。
 大学生の頃は毎日のように見ていた顔。一緒にマンガを読んで笑ったし、映画を見て泣いて、料理の味付けで少しだけ喧嘩をして。
 もっと、色んな顔が見たかった。社会に出て成長した部分はたくさんある。自分の根本は変わらなくても、昔よりも物事に対して深く考えるようになった。
 お酒だって前は舐める程度にしか飲めなったけど、今は数杯大丈夫だ。彼女と一緒にお酒を飲んだ回数は少なくて、それは酒に弱い私を気遣ってだった。きっと、今一緒に酒を煽れば、きっと学生時代には見えなかった互いが、発見できた。それを、楽しめた。
 彼女が夢を叶えて、嬉しそうに笑う顔が見たかった。普段大笑いすることの少ない彼女だけれど、感情が溢れるとクシャクシャに破顔するのだ。きっと、学祭のサークル発表で賞を獲った時よりも、大きな笑顔が見られると思ったんだ。

「付き合いこそ大学からだし、卒業してからは頻繁に会えなかったけど。
 私の親友になってくれて、ありがとう。一緒に過ごしていて楽しかったし、幸せだった。
 いつも応援してくれてありがとう。すごく、心の支えになった。
 私のこと理解してくれてありがとう。マイペースすぎるって言われてばかりだったから嬉しかった。

 自慢の親友だから、私の分の幸せも託すね。悲しい思いをさせちゃうけど、それでも、いつか向こうで会う時には幸せな人生だったって、教えて。」

 せっかく止まっていたのに、涙腺が決壊した。唇が震えるのを止めようと、ぐっと下唇を噛む。それでも身体が小刻みに震えるのは止められない。次々に溢れだして頬に流れる涙が、ひどくあつい。
 いまだ机の上に置かれたままの親友の手を、咄嗟に掴もうとした。
 重ねる様にした手は、そのまま木の硬い感触しか掴めない。滲む視界が鬱陶しくて、左手で雑に目をこする。目の前の親友は、さっきまであたたかな体温を宿していた彼女は。薄っすらと透けていた。掴めない。そこにいるのに、もう、いない。
 つい数分前までの温もりが幻のように零れ落ちていく。歯を食いしばらないと、叫びだしそうだった。

 しっかりと顔を見たいのに、視界がぼやける。また雑に手で拭って、目に必死に力を入れ前を見据える。
 親友は、やっぱり穏やかな、幸せそうな、そして、強い笑みを浮かべていた。とても彼女らしいその顔を焼きつけたくて、ぐっと強く瞬きをして睫毛について涙を落とす。
 言われずとも、分かっていた。きっとこの夢は最後だし、目の前で私の声をきちんと聞き届けてくれるのも、もう。

 ゆらり。目の前の輪郭が少し揺れる。涙を流している場合ではない。
 震える身体から、大きく息を吐き出す。涙でグチャグチャだとしても、最後に見せるのは嘆き悲しむ顔にしたくない。
 一つ、目を閉じる。恋人とか、家族とか。それとは別のベクトルで、人生で最愛の人。ゆっくりと瞼をあける。穏やかに笑う彼女につられるように、自然と口角が上がった。それでも一筋涙が零れて、寂しそうな顔でもあるのは許してほしいな。

「私の親友になってくれて、ありがとう。大好きだよ。…本当に、ありがとう。」

 目が覚めた時。頬にはまだ涙が流れていたし、枕はひどく濡れていた。そして、夢の記憶は一つも欠けることなく、残っていた。夢の中の出来事だけれど、現実なのだと、頭が、心が、理解していた。
 とても普段の日常を送れる気分でもなくて、体調不良と連絡を入れ部屋で過ごす。クローゼットに仕舞われていた思い出を持ち出して、旅行のアルバムを見返して。何を見ても涙が流れたが、あの恐怖感はもうしなかった。瞳を閉じれば、綺麗に笑っていた彼女の顔が浮かぶ。

 夕方。スマホに電話がかかって来た。見たことのある数字だ。学生時代彼女から荷物が届く時に伝票へ記載されていた、彼女の実家の番号だ。確か卒業旅行の際、緊急連絡先として互いの実家の番号を交換していた。
 覚悟していた内容を聞かされた。分かってはいたけれど、第三者から聞くとやはり衝撃が大きくて。決定的なことを言われると、もうダメで。溢れだす涙を止めることが出来ず、嗚咽をこらえながらなんとか会話をして電話を切った。
 少し長い時間を要して涙が落ち着いたころ、数日後の予定へと思考が向く。喪服は数年前に祖母の葬式で着て以来だ。状態を確認しておいた方がいいかもしれない。
 ふと、手に握ったままのスマホの存在が気になった。見たいような、見たくない気持ちでそっと電話マークをタップする。
 最新の記録である、彼女の実家の番号、その下の二行。彼女の名前。一度目は不在着信で、もう一つ上が、私から掛けたもの。そこには間違いなく3日前の日付と時刻があって。
 大切な親友の名前をじっと見ていると、ぽたりと画面に水滴が落ちた。瞬きをして、また一粒。適当に手で目元を拭って、滲んだ視界を元に戻す。すると、視界はクリアになったのに、何故か画面は滲んで見えるままだ。
 いや、彼女の名前の書かれた二行だけが、滲んで見える。涙に覆われた視界のようにぼやけた画面は、どんどん滲んで行って、やがて、ふっと消えた。
 通話履歴に残っているのは、彼女の実家の番号と、先週掛けた友達の名前。間違いなく見えていた親友の名前が、無い。

 画面を切り、そっとスマホを置く。目を閉じて、3日前を思い出す。普段と変わらない調子で話を聞いてくれた。あの記憶だって、きちんと残っている。夜中に見た夢のことも、はっきりと覚えている。大丈夫。私の中には、きちんと残っている。

 覚えているから。
 約束の通り、私はこの哀しみを乗り越えようと思った。
 超えて行けると、思った。

 いつか、「こんな事があったよ」と笑いながら報告することが出来る様に。

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