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ケアについて考える

こんにちは!
訪問看護ステーションlifeで看護師をしている田代さとみです。
ラーメン屋さんなどで出してくれる小さいコップで飲む瓶ビールが好きです。

今回は、ケアについて私が考えていることを文章にしたいと思います。

ケアについて考えるきっかけ

起業してから、特に管理者を引き継いでから、言葉の定義についてよく考えるようになりました。
日々決断に迫られ、そのための判断軸が必要になったからだと思います。

そもそもこれって、どういう意味なんだっけ?
私の決断にどんな意味があるんだろう。

と考えるようになりました。
私の決断はチームの決断にもなるので、責任重大です。
全体を見渡して最善を選ぶ。
引っかかった言葉や初めて耳にする言葉があれば、検索したり本を読んだり。
そこから自分なりに解釈する、という作業を繰り返しています。

ここで私が言う「ケア」の対象は、利用者さんやご家族に限ったことではありません。
ケアは日常のあらゆるところに存在しています。
スタッフ同士もそうだし、夫婦、親子、友達‥ケアしたりケアされたりして私たちは生きています。
自分と自分の間にもケアは存在しています。
つまりセルフケアです。
ケアの専門職であるからこそ、日々の中で意識的にケアを実践することが大切。
私の持論です。
だから、ケアとは何かについてちゃんと考えてみたい。
そして、自分の言葉で話してみたいと思うようになりました。


看護について

私が日々実践している看護の土台は、ナイチンゲール看護論にあります。
私が実践している看護=lifeの看護としています。
はい。
ジャイアンの発想です。
ナイチンゲールは看護を以下のように定義しています。

看護とは、体内に宿る自然治癒力が発動しやすいように、生命力の消耗を最小限にしながら、生活過程を最良の状態に整えることである。

「新版ナイチンゲール看護論・入門 『看護覚え書』を現代の視点で読む」金井一薫

痺れちゃう〜
お金持ちの家に生まれて何不自由なく暮らしていたナイチンゲール。
神のお告げによって看護師を目指します。
まさに天職でした。
完全にスピリチュアルだけど、嫌いではないエピソードなので書いておきます。
虫の知らせとか、直感とか、そういう類のことだと思うから。
自分の直感に従って生きたナイチンゲール。
尊敬します。
とにかく、暮らしといのちをまるごと支える訪問看護を目指すlifeの看護とナイチンゲール看護論はとても相性が良いと思っています。

私が考えるケアについて

一方で、ケアについてはさまざまな解釈があります。
私が考える上で参考にした書籍から抜粋します。

やがて訪れる死や衰弱は、誰にも避けられない。自分や親しい人が苦境に立たされたとき、私たちは「独りでは生きていけない」と痛感する。ケアとは、そうした人間の弱さを前提とした上で、生を肯定し、支える営みである。

「ケアとは何か」村上靖彦

同著の中ではケアの目的を
「ケアとは生きることを肯定する営みだ」とも言っています。
生きるを肯定。
なんて素敵なんだ。
まさにlifeが目指すケアとセラピーだ。

私がひっそりと推している教育者・哲学研究者である近内悠太さんは、ケアを以下のように定義しています。


ケアとは、その他者の大切にしているものをともに大切にする営為全体のことである。

「利他・ケア・傷の倫理学 私を生き直すための哲学」近内悠太

こちらの本では利他についても書いてありました。
私が目指す生き方、大切にしたい価値観の中に「他者貢献」があります。
他者貢献の実践にはまずは自分が利他的であることが重要です。
自分のために抜粋しておきます。
(後から読み返して確認できるからね!)

利他とは、自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものの方を優先することである。

相手の大切なことを、ともに大切にすること。
そして、相手のために自分が変わること。
私が目指すケアの形です。

相手の大切なことを、ともに大切にすること。
これはlifeが日々実践していることです。
病気や障害によって途切れてしまったその方の物語を理解して、もう一度紡ぎ直す。
そして、相手のために自分が変わる。
これは意図的に変化することとは違って、
人と繋がり、ケアを通して、ケアをした結果、自分が変わってしまっていた、という時間の存在が重要になります。
私はここにケアの本質があると思います。
「相手のために自分が変わるんだ!」という意気込みは、自己犠牲を伴いがちです。
自己犠牲を伴うケアは、私が目指すケアではありません。
看護でもありません。
これははっきりと言えます。

時間がない!と嘆いている私ですが、自己犠牲のもとで仕事をしているつもりはありません。
1人で生きているわけではないし、支えや応援を日々感じています。
私の頑張るエネルギーはいつも外からやってきます。
たぶん、私が頑張るのは、私に生きるためのエネルギーを与えてくれるものに対する恩返しなのだと思います。
うまくいかないことがあっても必ず何かにつながると信じているし、
真剣に生きていれば、自分の想像を遥かに凌駕するギフトがやってくることも、経験上知っています。

「なんで私ばっかり…」と思うこともありますよ、そりゃ。
夫に八つ当たりしたり、子供に八つ当たりしたりすることもあります。
事務所でピリリとした空気醸し出したりさ‥
ごめんよみんな。
これって、突き詰めるとセルフケア不足なのだと思います。
誰かのために頑張っているつもりが、実は他人に承認して欲しいだけだったとか。
自分のためにはどうにも頑張れないとか。
特に後者は私において、しょっちゅう巻き起こります。
それでいて
こんなに〇〇なのに
とか、
なぜ私ばっかり‥と感じてしまう。
厄介です。
未来の自分のためにも、周りの人のためにも、手放したり頼ったり甘えたりしたらよろしいのに。
セルフケアは私にとって永遠の課題です。


ケアにまつわるエピソード

数ヶ月前のこと。
ほとほと疲れ果てていました。
夫とすれ違い朝から大喧嘩。
両親の狂気を目の当たりにして怖かったはずなのに
小学1年生のこっちゃんが
「まま、大丈夫だよ。がんばってね」と一生懸命笑顔を作って
「いってきます」と玄関を出て行きました。
バタンとドアがしまった瞬間、もう力が出ませんでした。
あんなに小さい子供でも私のために頑張ってくれるのに、なぜ私は頑張れないんだろう。
落ち込みを選択して仕事を休みたい。
でも休むわけにもいかずいつものように訪問看護をしていました。
看護をしているといつも元気になっちゃう私ですが、その日は違った。
痛みに苦しみ、もう人生を終わりにしたいと涙を流す利用者さんを前に、本当に何も言えなくなってしまったのです。
「ごめんなさい。力になれなくて」と伝えるのが精一杯。
泣いちゃダメだと思うほど涙が溢れてくる。
うう・・情けない。
息を殺して泣くことしかできない私。
ふと私の顔を見た利用者さん。
田代が泣いている‥
(驚いたことでしょう‥)
「田代さんごめんね。大丈夫。私、もう大丈夫だからね」と涙を拭いて、
痛みがあるはずなのに、私の肩を撫でて励まして下さる。
その優しさがありがたく、また涙が出てしまう。
もう私はボロボロでしたが泣いたら少し落ち着きました。
そのあとは2人で涙を拭いて鼻をかんで、おしゃべりをして、笑顔で退室しました。
玄関を出て、いつものように中庭から手を振って別れました。
車に戻り、朝よりも元気になっている自分に気づきました。
ケアをしてもらった実感がありました。
この体験を振り返ると、こっちゃんも、利用者さんも、自分のことよりも私を優先してくれたことがわかります。
私を大切にしてくれた。
生きる力をもらいました。
ケアって、こういうことなのだと思う。

おわりに

「ケアについて自分の言葉で話す」
ここ最近の私のテーマでもありました。
いつかnoteに書きたいと思っていたので、実行できてよかった。
本の影響も多大に受けていますが、自分の考えと相違ないと思っています。

実は今回、noteの投稿を諦めかけていたんです。
時間がないし、書ける気がしてなくて。
でもやると決めたからにはやるんだ!と思い直し書き始めた今朝、途中まで書いたものが全部消えちゃったんです。
もう月1の投稿やめようかなと心折れかけた。
踏ん張れたのは、読んでくれている人がいることを思い出したからです。
あなたに救われました。
そして、この踏ん張りが、未来の私を救ってくれる日がくることでしょう。
(そうなったらセルフケア成功と言えます。)
とにかく。
読んでくださりありがとうございます!
優しいあなたに幸あれ〜!





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