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アルゴ、ラスボスと対面ス(1)
これは、夫アルゴが私の母に会った時の話。先日のNoteにて詳しく私が母親と絶縁した時のことを書いたのだけど、せっかく(?)なので夫アルゴが母親に対面した時の話を記そうと思う。
そもそも、この話は毎年、正月になると思いだすネタであり、1月が終わる前にNoteに書いておこうと思った話なのだ。気が付けば3月も目の前ですけど。
ラスボス、それは私たちの入籍に大反対していた母親のことである。今回の話は、過去に書いたNoteでの話を知っているとよりお楽しみいただけるように思うので、通常より多めに過去記事のリンクなぞを張り付けていこうと思う。
結婚、もしくは婚約に際しての両家族へのご挨拶。我々はそんなもんすべて吹っ飛ばしてクリミナルコート(犯罪裁判所)にて土曜日に籍を入れ、事後報告でアルゴ側のおばたちに報告。私は当時、母親から絶縁されていたため、唯一、連絡を取っていた妹にのみ報告した 【詳細は下のNote】
アルゴ側おばたち(4人)からは、は?!何で!お祝いとかいろいろあるんだから事前に連絡しなさいよ!と怒られ、私は3歳下の妹から、『おねぇちゃん。そろそろちゃんとお母さんとかお兄ちゃんとかおじさんらにちゃんと話すべき』と諭された。そらそうだ。当時、私は妹以外の家族・親族とは10年ほど連絡を絶っていた。母親に絶縁されていたためである。
母親が私を絶縁したのは、アルゴが
◆ブラックであること、
◆7歳年下であること、
◆学生であること、
◆家庭環境が違いすぎること
以上の事を理由に、入籍前から我々の付き合いには大反対しており、さらに私が大学院を辞めた後も日本に帰らないことがトドメになった。【絶縁宣言の詳細は下のNote】
ちなみに母と弟は、私が院を辞める直前くらいにこちらにやってきたが……むろん、私の退学を思いとどまらせるためである……当時、私の住んでいたアパートメントに来るでもなく、アルゴやその家族に会うでもなく、ホテルで説教をくらい、翌日には大都会へと遊びに行ってしまった。【大学院を辞める経緯のNote】
ちなみに、アルゴを含め、ママ、弟、そして(いつもここでネタにしている近所に住んでいる)叔母までもが失礼のないようにとがっつり用意をしていてくれたので、申し訳ないやら、恥ずかしいやら、怒りやらで私はとても複雑な気分だった。
【いちいち騒動を起こす叔母についての詳細は下のNote】
母がアルゴとその家族に会うことを断固拒否したため、弟もそれに従った。母は、ほぼ1日かけて、海を渡り、私に2時間ほどの説教を食らわせるためだけにわざわざやってきたのだ。何なんだ、そのパワー。発電でもすりゃいいよ。
母と私にはずっと埋まらない距離がある。東京で大学に行っていた頃も私の住んでいる所に来たことは無かったし、高校で家を出たけれど、学校からの呼び出し以外で会いに来たりはしなかった。電話もそうで、高校の頃から現在に至るまで『暇だから電話したの』『声を聞きたくて』とか『元気にしてる?』なんて離れ離れで暮らしている家族にありがちな電話は一切ない。電話をしても、「何か用?」「あっそう、じゃね」と大体、最長で1分、最短では15秒で電話を切られた。ちなみに現在でもそれは続いている。
【創作風に書いてみた私の母への想いは下のNote】
高校の時に、いじめにあった私が胃潰瘍になり、血まじりの吐瀉を繰り返した時期があったのだが、その時ですら「胃潰瘍なりで死ぬときって、洗面器一杯くらいの血がでなきゃ死なないのよ。大丈夫、大丈夫、がんばりなさい」とだけ言って電話を切ったほどの女なのである。ちなみに私は実家から車で2時間ほどの場所にある学校にいたので寮住まい。当時の私の年齢は16歳である。
母のことを説明するのは難しい。ものすごい見栄っ張りで、気取り屋であり、気分屋であり、だが外面はものすごく良い。ジキルとハイドばりに変容する。毒親というものに分類されるような気がするが、なんだか無理して「母親業」をやっていたような人だ。
話を結婚時の挨拶に戻そう。
弟が結婚するとき。義妹は遠方に住んでおり、飛行機に乗って挨拶に来てくれたのだが、家には宿泊させず(ちなみに実家は田舎なので阿呆のようにデカい)挙句、あれやこれやと嫌味を言い、義妹は泣きながら帰った。義理の妹はもちろん、日本人である。
妹が結婚するとき。義弟は正装で来なかったため、玄関先で罵詈雑言を投げつけられ、帰宅させられた挙句、その後、3年間、無視し続けられた。因みにその時の訪問は、挨拶などではなく、妹を家まで送ってきたのでご挨拶だけでも、という感じだった。いうまでもないが、義理の弟ももちろん、日本人である。
何なのだろう。母は子供たちが「自分の理想の伴侶」を連れてこなかったことに怒りを覚えたのか、はたまた、単なる人嫌いなのか。多分、両方の要素をもって、『我が家』にやってくる『新しく家族になる人』に徹底的に批判し、子供たちを非難した。どっちにしたって、初対面の相手を泣かせたり、罵詈雑言を吐き散らかすなど普通の人にはなかなかできない。少なくとも私にはそんな根性はない。
幸い、義妹も義弟も、そしてそのご家族も、大層、優しい人たちであり、できた人たちであるので、それぞれが弟、妹と共に良き家庭を築きつつ、その上、最低最悪の初対面を作り挙げた意地悪ババァのことをお義母さん、お義母さんと何かと気にかけてくれる。私ならそんな失礼ババァ絶対にゴメンである。しかもそんな人が将来の義母だなんて絶対にやってられない。義妹と義弟が良い人で良かったと私は心から感謝しているのだ。
母に会う前、アルゴに母がどんな人か散々聞かれたが、上記のような話をし、意地悪ババァ(日本語)だし、家に連れてくる伴侶を平気で、なんのためらいもなく侮辱するような人だから、何を言われても、何をされても気にしないでほしい、と何度も言った。弟の嫁も、妹の旦那も日本人であるのに、めちゃくちゃに言われて、結婚するまで大変だった、ということも説明した。もうすでに会う機会をばっさりと切られているのだし、今更会うことにどんな意味があるのかわからないし、彼女(母)はあなたを不愉快にさせるだけだと思う、と。
それでもアルゴは母に会いたがっていた。曰く、自分の母親はもうこの世に存在しないため、自分が「母親」と呼ぶことのできる存在は、君のお母さんしかいないのだ、とのこと。なんということでしょう……なんというかアルゴは時々、ものすごく優しく、慈愛に満ちているようなことを言う。
絶縁が一部解除されてから私たちは9月に二人そろって初めて帰国した。一部解除、というのは妹に説得された私が、おじ(母の弟)と自分の弟に連絡を取り、勝手に入籍したことを謝罪、これまでなんの説明もなく院を中退した後も居残った理由を説明、謝罪したため、とにかく一度は二人で帰ってこい、と言われたという経緯がある。
その年の9月は大型連休があった。だがその時、なんと、母は私たちと会うのを拒絶。地元に帰っており、実家も存在しているというのに私たちは母の弟であるおじ(この人は私を溺愛している)の家に1週間ほどお世話になることになった。そんなアルゴと私を不憫に思ったのか、母方のおじ家族は我々を手厚く迎えてくれ、また、隣の県に住む父方のおばもおば宅でお帰りなさい&おめでとうパーティを開いてもくれた。だが、実の母親は面会拒否。断固拒否。
【その時の話を含んだおばの話のNote↓】
ちなみにこのおじ(母弟)も母により絶縁されている。母は、多分、人と絶縁するのが趣味なのだろう。そうとしか思えない。会わないわけにもいかないだろうと、私だけが弟に連れられて母の家、つまり実家へと行って2時間ほど話をして終了した。もちろん、説教であった。ちなみにその時、弟は母親が事前に注文していたお寿司を取りに行かされたわけだが「ババァ……特上たのんでやがった……費用俺持ちで(震)……」と呟いていた。お寿司はおいしかった。
そして次の帰国は2年後。アルゴに日本のお正月気分を味わってほしかったのと、日本にいる家族、親族、友人らが比較的自由に時間を取れる時期であるのでその時期に帰国したのだが。前回の帰国の折、母は、我々がおじ宅に滞在していたこと、アメリカに戻るというのに会いに来なかったことに大層、腹を立てていたらしい。
……どうしろと?(真顔)
そんな阿呆な!そもそも、絶縁、家の敷居を二度とまたぐなと言ったのは母であり、絶対に、黒人なんかを家にはあげないから絶対につれてくるな、本来ならお前の顔すら見たくもない、吐き気がする、とまで言ったくせに。それで致し方なく弟に連行される形で私のみが実家に行ったという経緯があるというのに。なぜ……
最初の帰国(9月)の折に実家へ顔を出した私ははっきりと母に告げた。寿司を食べながら。
勝手に籍を入れ、結婚したのは悪かったが、彼は私の選んだ人であり、彼とその家族とはもう20年近く一緒にいて、皆が大事にしてくれる。そして、義母の亡くなり、兄弟と絶縁した今、彼にとっての支えであり、ソウルメイトと言える存在は私であり。私自身も院生活で大変な時、その後の病気や大きな手術の折に支えてくれた彼がいなければ生きてはいけない。黒人「なんか」と言ったが、そんな風に肌の色で人間を判断するような人間になるなと言って育てたのは貴女だというのに、そのあなたからそんな言葉を聞くとは失望、絶望以外の何物でもなく。同時に、彼を肌の色で傷つける人間に対して、私は断固、拒絶・反発する。誰であろうとも彼を傷つける存在は、私がぶちのめす、なぜなら私は彼の妻なのである、というようなことをまくしたてた。
あれ…?デジャヴかな……?
その時、私は母と会話しながら、LUNA SEAの名曲「Déjàvu」”未来・過去・今人々のドラマシナリオはいつも Dejavu 傷つく事を出来ないあなたが繰り返す”と脳内の河村隆一が頭の中で歌い続け、SUGIZOがくるくるギターを弾きながら回っていた。私は杉ゾーが大好きなのである。そういえば、実家にあったはずの杉ゾーのサインも紛失していて震えた(というか、私の部屋自体がつぶされ、何故かトイレになっていた)。
そう!私はアルゴとの付き合いを母親に宣言した時もまったく同じことを言ったのである。そこまで言ってあるのだ。さすがにこれ以上、失礼なことをしたり、アルゴを傷つけるようなことをすることはなかろう、と弟、妹と話し合った末に、2回目(正月)の帰国時は実家に滞在することにしたのである。
妹は大学在学中にこちらへと遊びにきたことがあったのでアルゴのことを知っていたし、1回目の帰国で彼女の家族を含めたみんな(母以外)はアルゴを家族の一員として扱ってくれていた。
地元は東京からずいぶんと離れた場所にあるので、帰国する時は、我々の居住しているアメリカのクソ田舎から、まず都会へと出て、飛行機に乗る。もしくは、地元の空港から、飛行機を乗り継いで日本に帰ることになる。そして日本についてからは、東京で一泊し、それから日本のクソ田舎である地元へと飛行機で帰るという流れになる。24時間では足りない旅程なのである。
2回目の帰国の折は、東京に住んでいる友人が家族総出でお迎えに来てくれて、そのまま彼の運転するワゴンで都内一周ナイトクルーズをしてくれた。我々はそんなに頻繁に帰ることができるわけでもない。久々に帰るのだから、基本、会う人たちは、私たちが心から会いたいと思う人たちであるし、また、会う人、一人ひとりがとても私たちを大事にしてくれている(母を除いて)。帰国する間の時間というのは、とても限られている貴重な時間なのである。
今回ばかりは、母が自分から帰るなら家に戻ってこいといったわけだし、あまりひどいことにはならないだろうと私ときょうだいはタカをくくっていた。正月だし、なんとなく周りが慌ただしく浮かれているから、大丈夫のはず。
だが、甘かった。甘かったのだ。
東京に到着。ナイトクルーズからの浅草観光までしてもらって、地元には翌日に帰った。妹が甥姪を連れて迎えに来てくれていた。空港から地元まで、さらに車で1時間かかるのである。
大丈夫?ドキドキしてる?と尋ねる私に、アルゴは、いや平気だよ~と言っていたが、なんせ癇癪もちのくせに非常に繊細という面倒な性格の人なのだ。私の方が緊張で吐きそうになっていた。アルゴは甥、姪と一緒にはしゃいでいた。
(続)
対面スと題したNoteであるにも関わらず、まだ対面もせず、前振りの段階でこの有様。お察しください、本当に大変だったのです…