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月夜のボート

彼を思うときー、わたしはいつでもこんな情景が脳裏にうかびます。

真っ暗な夜に、星あかりを頼りに進む一艘のこぶね。
舟の先にはちいさなランタンがひとつきり、掲げてあるだけ。
そのボートに彼はたったひとりで、脇目もふらず、ただひたすらに月に向かって、
前に前に漕ぎ続けるのです。

彼は、そんなひとでした。

自分の思想を何よりも大切にし、人に嫌われることなどちっとも怖くなかったひと。
大きな理想を掲げ、覚悟を決めたら目標に向かって邁進する…。

どうしてそんな人が、意思薄弱で周囲の目ばかり気にするわたしなどを好きになったのか皆目見当もつかないのですがーともかくわたしたちは、あるときお互いに、情動的に、恋に堕ちたのでした。

けれどわたしたちはあまりにも違いすぎていました。
男性性と女性性の両極端にいるようなふたりでした。
わたしは彼の気持ちがわからなかったし、彼はわたしの気持ちなど気にも留めませんでした。ただ、なんとも説明し難い情熱が、ふたりをどうしようもなく結びつけていました。

わたしは彼に、自分の在りたい姿を重ねていたのでした。
自分のことが大好きな彼。こうと決めたらすぐに行動する力強さ。物事をシンプルに捉える明朗さ。
すべてが、わたしの目にはきらきらと輝いて見えました。
わたしもこうなりたい、このひとみたいに生きてみたいと。
そして何より彼の近くで、どんどん逞しく成長してゆく彼自身を、ずっと見ていたいと…。

けれど、どんどん大きくなるわたしの想いとは裏腹に、彼はどんどん遠退いていきました。わたしは置いてけぼりになったような心持ちでした。
焦り、苦しみ、焦燥感。いくど涙を流したことでしょう。
けれど彼は揺らがなかった。
彼はもう、わたしの気持ちに添うことはありませんでした。
ほんとうに哀しいほど自立した人だったのです。

わたしはいつしか一艘のボートを漕ぐ姿を、彼に重ねるようになりました。
その姿は、あまりにも孤独だと感じました。
彼は、たったひとりなのでした。
横でボートを漕ぐわたしには目もくれず…。
彼の人生には彼しかいなく、真っ暗な夜と河の中で、目的地に向かう旅をひたすらに続けてゆくのです。

わたしはいつしか彼の元を去りました。
彼の在り方が好きでたまらなかったけれど、あまりにもふたりの人生が違いすぎて、添い続ける活力が尽きてしまったのです。

それから何年経ったでしょう。後に、彼が結婚したらしい、と風の噂で知りました。赤ちゃんもこれから生まれるそうです。
わたしはそれを耳にして、心からよかったなぁと思いました。
わたしの中の、孤独なボートのイメージが、みるみるうちに変化してゆくのをまざまざと見ました。
真っ暗だった夜空は、夜明けのあざやかなオレンジ色へと変わり、彼のボートに寄り添うように、もう一艘のボートが仲良く並んでいるのを確かに見ました。

ああ、彼はもう孤独じゃないんだ。ほんとうに、彼の人生に併走するパートナーを見つけられたのだと感じたのでした。

その時やっと、わたしは彼にさようならを言えたような気がしました。
わたしは湖畔で、彼らのボートにそっと手を振って、いつまでも見送ったのでした。

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