シリーズ「霊の中に生きる」 No.4人の霊(4) ⑫
シリーズ「霊の中に生きる」 No.4
人の霊(4) ⑫
●聖書の最高の教えは、
「霊の中で生きる」ことです。
4.
イェシュアのことばを信じて生きる
【新改訳2017】
ヨハネの福音書5章1~9節
1
その後、ユダヤ人の祭りがあって、
イエスはエルサレムに上られた。
2
エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
3
その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。
4 【本節欠如】
5
そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
6
イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」
7
病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。
行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」
8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
9
すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。
「ベテスダ」(בֵּית חַסְדָּא)とは「恵みの家」という意味です。
「五千人の給食」のたとえでは「五つのパンと二匹の魚」、つまり、文字(もんじ)としてのみことばは人を生かすことができないことを啓示していました。
ここでも「恵みの家」という池は名ばかりで、人を生かす場所にはなっていなかったのです。
時は「過越の祭り」の時、イェシュアはこのベテスダに立ち寄り、三十八年間も病気であった人に声をかけられたのです。
イェシュアの語ることばは「霊であり、いのち」です。
つまりイェシュアの語ることばは、書き記された文字としての「ロゴス」ではなく「レーマ」です。
これは信仰をもって聞く時に神の力が放たれます。
ここでは「良くなりたいか」と「起きて床を取り上げて、歩きなさい」ということばがレーマです。
このレーマを信仰をもって聞くことが、「霊の中に生きる」ことなのです。
肉は何の力もありません。
つまり、「理解の型紙」としての人間的な判断は何の力もないばかりか、つまずいてしまいます。
反対に、霊の中で聞く神のレーマはつまずくことなく信じることができるのです。
「たましい」で聞くことと、「霊」で聞くことの違いがここにあります。
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