シリーズ「霊の中に生きる」 No.15人の魂(13)

シリーズ「霊の中に生きる」 No.15
人の魂(13)

新しくされたキリストの「思い」

神の国と神の義を求めよ!

●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。

シリーズ「霊の中に生きる」の第15回目です。

「人のたましい」について扱っております。
今日はその第13回目です。

人の魂 (2) - 牧師の書斎

1. 「たましい」の中の「感情・感覚」

今回は、たましいの中でも「感情・感覚」について扱いますが、この部分はとても厄介です。

感情の反意語は理性ですが、理性も感情もいずれもたましいの領域なのです。

理性に傾くか、感情に傾くかの違いだけですから、いずれも神に反抗する性質をもっているのです。

この「感情・感覚」にいかに対処するかが問題なのです。以下は、感情に属する語彙を並べたものです。

恐れ・不安・思い煩い・心配 ⇔ 安心・平安・慰め・安息
愛  ⇔ 憎しみ
優しい・嬉しい ⇔ 怒り・憤慨・嘲り・不愉快
歓喜(喜び)・興奮  ⇔ 悲哀(悲しみ)・失意・落ち込み
充実・満足 ⇔ 空虚・寂しい・空しい・
好ましい・麗しい ⇔ 嫌い・嫌悪
・・・これらはみな感情に属します。

大局的に並べられていますが、その間を行ったり来たりしているのが、人のたましいです。

それらが霊によって変えられるとどうなるのでしょうか。

この世で感情ほど変わりやすいものはありません。

第三の天にいるかと思えば、奈落の底に突き落とされるといった感情の浮き沈みを繰り返す人は、確実にたましいに支配されているのです。

特に、「心配性の人」は「感情に支配されている」と言えます。

たましいはこの上なく不安定であり、霊に支配されている人とは決して言えません。

感情が強い人は、静かな霊の声には気づきません。

霊によって生きようとする人にとって、感情は最大の敵となります。

浮き沈みの激しい感情的な人を霊の支配下に置くことができるのでしょうか。

それは信仰による奇蹟しかありません。

前回にも学んだ箇所の並行記事を、再度取り上げたいと思います。

この箇所には、生来の「感情」(緑色)と、霊によって新しくされた「思い」(黄色)と「意志」(ピンク色)が含まれています。

今回は①「心配する」(思い煩い)と②「喜び」の感情について取り上げたいと思います。

【新改訳2017】
マタイの福音書6章25~34節


25

ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのち(ψυχή=נֶפֶשׁ)のことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだ(σῶμα)のことで心配したりするのはやめなさい。

いのち(ψυχή)は食べ物以上のもの、からだ(σῶμα)は着る物以上のものではありませんか。


26

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。

それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。


27

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのち(ψυχή)を延ばすことができるでしょうか。


28

なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。


29

しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。


30

今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。

嗚呼、信仰の薄い人たちよ。


31

ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。


32

これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。


33

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。


34

ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

最後の34節に「明日のことは明日が心配します」とありますが、それは、その日その日のすべきことに集中すべきであることを教えています。

ところで、「心配」や「思い煩い」といった感情はたましいの領域です。

ここでは生命の保障という意味で「心配しています」が、マルタのように接待のために「いろいろなことを思い煩って、心を乱している」ことも同じくたましいの感情の領域です。

「心配する、思い煩う」と訳された「メリムナオー」(μεριμνάω)は、「心が分裂する」ことです。

そのような「たましい」を「いのち」(ギリシア語は「プシュケー」ψυχή、ヘブル語は「ネフェシュ」נֶפֶשׁ)としています。

つまり「生来のいのち」を意味しています。

御霊によって刷新したいのちならば「ゾーエー」(ζωή)になります。

たましいにおける感情から解放される唯一の鍵はただ一つしかないことを、イェシュアが語っています。

それは「神の国と神の義を求める」ということです。

ルカでは「御国を求める」となっています。これが「霊の中に生きる」ことなのです。



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