シリーズ「霊の中に生きる」 No.8人の霊(8)⑥
シリーズ「霊の中に生きる」 No.8
人の霊(8)⑥
神の回復の始まり、再創造の出発点
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。
シリーズ「霊によって生きる」の第八回目です。
今回も「人の霊」について扱います。
今日はその第六回目です。
4) 御霊の造り変え
御霊が神のみこころを知って、私たちの霊の中でとりなしてくれるので、やがて私たちは神を完全に知ることが可能となるのです。
また、
御霊の助けはそれだけでなく、私たちを「御子のかたちと同じ姿に」造り変えていきます。
そもそも人間が創造された意図は神ご自身のかたちに、そしてその似姿になることでした。
神ご自身とは「御子」のことです。
ですから、「かたち」(「ツェレム」צֶלֶם)は神を表わす表現としての容器を意味します。御子イェシュアは御父を表現する「かたち」そのものでした。
そのように神によってあらかじめ定められていた私たちも御霊によって「神のかたち」にされるのです。
そしてまた御霊は「御子と同じ姿」に私たちを造り変えてくださいます。「同じ姿」とは「似姿」で「デムート」(דְּמוּת)です。
これは神の内実を意味します。
御子の似姿とは「長子」のことです。
本来、長子は家族の中では一人だけですが、神である御霊は私たちを召し(選び)、義とし、義と認めた人々にさらに栄光をお与えになります。
8:29
神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。
それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
8:30
そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。
(ローマ8:30〜8.31)
つまり、御霊は私たちを「長子となられた御子と同じ姿(似姿)」に造り変えてくれるのです。
それゆえ、私たちは「天に登録されている長子たちのエクレシア(教会)」に近づいているという表現がなされます。
12:22
しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、
12:23
天に登録されている“長子たち”の教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、
12:24
新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。
(ヘブル12:22〜12.24)
「長子たち」という表現が長子である御子の似姿に変えられていることを意味しています。
やがて、究極の新しいエルサレムにおいては、イスラエルは城壁の12の土台として「宝石」に、エクレシア(教会)は城壁の12の門として「真珠」に造り変えられています。
21:19
都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、第四は緑玉、
21:20
第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21:21
十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった。
(黙示録21:19~21)
「造り変える」御霊の働きは、イェシュアが死から復活されて栄光を受けられるまでは存在しなかったのですが、復活によってそれが今や包括的に与えられています。
【新改訳2017】
ヨハネの福音書7章37~39節
37
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
39
イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。
イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかった(原文「なかった」)ので
ある。
「御霊はまだ下っていなかった」のは、イェシュアが復活されて栄光を受けるときまでです。
すなわち、復活されたその日の夕方に、弟子たちに「息を吹きかけて、『聖霊を受けなさい』」と言われるまでは、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」という御霊は存在していなかったということです。
しかし今や、イェシュアは「いのちを与える御霊」となられて、包括的に人の霊に入られることで、ヨハネの福音書7章37~38節の「生ける水の川」である御霊が人の霊の中に存在することが出来るようになったのです。
ここが神の回復の始まり、再創造の出発点です。
ここから人の新しい心が造られ、からだを健やかにし、やがては制約されることのないイェシュアと同じ御霊のからだとなるのです。