シリーズ「霊の中に生きる」 No.7人の霊(7) ⑤
シリーズ「霊の中に生きる」 No.7
人の霊(7) ⑤
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。
2. いのちのしるし
「いのち」とは何でしょうか。
「プシュケー」(ψυχή)と言われる「たましいのいのち」があります。
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
(マタイ6:25)
医療現場ではこのいのちを生かすために、医師たちが日々取り組んでいます。尊い働きです。しかし聖書のいういのちは「神との交わりのいのち」です。
そのいのちは
「ゾーエー」(ζωή)で表されます。
イェシュアの十字架の出来事は、「最初のアダム」を終結させるために必要な出来事でした。
十字架の血潮によって救いは百パーセント成就しています。
私たちの罪(原罪)は完全にきよめられ、私たちの数々の罪(行いの数々の罪)も完全に赦されているのです。
神が私たちの罪を二度と思い出すことはないのです。このことを信じるためには、たましい(心)を経由しないで、そのまま霊の中で信じなければなりません。
みことばの力の保証は人の霊の中にある御霊によるものであり、それが人にいのち(ζωή)をもたらすことになるからです。
御子を信じる者は「永遠のいのちを得る」とあります(ヨハネ3:16)。
「永遠」とは、「天」と同様に「神」ということばに置き換えられます。
「永遠のいのち」とは「神のいのち」であり、それは「三一の神のいのち」であり、それを得るとは、「三一の神にあるいのちの交わりにあずかる」ことを意味します。
14:18
わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
14:19
もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。
しかし、あなたがたはわたしを見る。
わたしが生きるので、
あなたがたも生きるからである。
14:20
その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。
(ヨハネ14.18〜14.20)
それは愛に満ちた親しい交わりです。
「御霊の思いはいのちと平安」(ローマ8:6)ともあります。
三一の神にある交わりのいのちは、人に真の平安(「エイレーネー」εἰρήνη)を得させます。
反対に、「肉(σάρξ)の思いは死」とあります。肉は「最初のアダム」に相当し、御霊は「最後のアダム」に相当します。
「最初のアダム」に属する思いの究極は「不安と恐れ、そして死」です。しかし「最後のアダム」に属する思いの究極は「平安」です。
その「平安」は単に争いのない、心穏やかな、安心という意味ではなく、ヘブル語の「平安」(「シャーローム」שָׁלוֹם)の意味です。
それは「神との和解、神のご計画の完全な成就、健全さ、健やかさ、愛の交わり、完全な悟り、繁栄、勝利」を含んだ概念です。
ヘンリー・ナウエンは、その著『いのちのしるし』(女子パウロ会、宮澤邦子訳、2002)の「はしがき」の中で、
「わたしたち人間は恐れに満ちた存在である。・・・恐れはわたしたちの内面深くまでしみこんでいるので、気づいているにせよ、いないにせよ、わたしたちの選択や決心の大部分はそれによって左右されてしまう」と述べています。
ひとたび恐れが私たちの生活を支配するようになるやいなや、私たちは愛の家から語られることばを非現実的なものとして信じられなくなってしまいます。
恐れをかき立てる現実的な世界のただ中で、果たして私たちが「全き愛は恐れを締め出します」という真理を知り、それによって恐れから自由になることが果たして出来るのでしょうか。
恐れる者。その愛
未だ全きではない。