『日本の残されし民より未来の全人類(選ばれし民へ)シリーズ『出エジプト記』に読む神のご計画 第九〜十章 ②
『日本の残されし民より未来の全人類(選ばれし民へ)
シリーズ『出エジプト記』に読む神のご計画 第九〜十章 ②
『“神に召された一人の偉大な指導者”が誕生すると、奴隷状況にあった一つの民族が解放されて、神の使命に生きる偉大な民族と変わりゆきます。その最初の選びがイスラエル民族にありました』。
この章では神に遣わされた、ミデアンの一介の羊飼いでしかなかったモーセから発せられる神の言葉が、時の大エジプト帝国の王なる権力者(自らを神とする)パロの心を頑なにさせる箇所のことが語られこのことによってエジプトに前代未聞の大災害がもたらされます。
神の目的とするところは『神が主であり王である』ことをエジプトに、さらにはイスラエルに知らしめるためです。
2. 主は正しい方 (主のことばを恐れる者は災害を免れる)
神は災害を臨ませるに当たって決まって警告を与えています。
神は事前に警告し、最善の選択を促しているにもかかわらず、パロはそれを拒絶しています。
興味深いことに、パロの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させ、雹による災害を免れたことが9章20節に記されています。とすれば、悪いのは、主のことばを恐れなかった者ということになります。
高ぶりのゆえに主を恐れることのない者は自らさばきを招くということです。
使徒パウロはローマ人への手紙1章で、神の存在を知っていながら神をあがめず、感謝もしない者に対して、神は彼らをその心の欲望のままに汚れに「引き渡された」(24節)とあります。
ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。
ロマ書1章24節
「引き渡された」とは「パラディドーミ」παραδιδωμιで、「まかせる」という意味です。
特に、敵の手や裁判官に引き渡すことを意味します。その結果として、彼らは互いにそのからだをはずかしめるようになったとパウロは述べています。
この「引き渡された」ということばは、他にも2回、26節と28節でも述べられています。
それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、
1:27
男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。
1:28
そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。
ロマ書1章26節〜1章28節
これは、神が人間の自由意志によって自ら良い選択をするように任せているという前提があるからです。
もし良いものを選び取ることがなければ、あるいは、神を恐れて神のことばを聞こうとしなければ、神は彼らが抱く良くない思いに「引き渡され」てしまうということです。
そのために、彼らはさらにしてはならないことをするようになっていくのです。
神の「引き渡し」は、本来、人間に与えられている尊厳性のしるしである自由意志を尊重しているということの、いわば裏返しなのです。