シリーズ「霊の中に生きる」 No.17人のからだ(10)
シリーズ「霊の中に生きる」 No.17
人のからだ(10)
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。
シリーズ「霊の中に生きる」の第17回目です。
今回は「人のからだ」についての第10回目です。
わたしたちは「任職」という語彙にも注意を払わなければなりません。
「任職」は「ミッルイーム」(מִּלֻּאִים)、あるいは冠詞付きの「ハッミッルイーム」(הַמִּלֻּאִים)とも表わされますが、これは「満たす」という意味の動詞「マーレー」(מָלֵא)から派生した語彙です。
モーセが「任職のいけにえ」と「パン」を両手に取って、それをアロンとその子らの両手に載せ、再度、彼らの両手からそれを受け取るという動作によって、「両手に満たす」という意味を表わし、そこから「任職」という語彙が派生しています。
実はこれが「献身」を意味するのです。
両手がいっぱいになって満たされるということは、それ以外の何物をも掴むことができないことを意味します。
つまり、祭司は「ただ一つのことに一生を費やすこと」、つまり「主に仕える以外の道はない」ということが献身の意味なのです。
その意味でパウロのいうローマ書12章1節のことばを噛みしめる必要があります。
【新改訳2017】
ローマ人への手紙 12章1 節
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。
あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。
それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
「勧めます」と訳された動詞「パラカレオー」(παρακαλέω)を名詞にすると、「助け主」を意味する「パラクレートス」(παράκλητος)となります。
ですから、ここのパウロの勧めは単なる勧めではなく、一人一人に聖霊の促しがなければできないということを暗に語っていると思われます。
その促しの内容とは、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げること」です。
神に喜ばれる(=受け入れられる)とは、献身を意味します。
それこそ「ふさわしい」礼拝、すなわち「心のこもった、じっくり考え抜かれた、理にかなった、霊的な」礼拝となるのです。
礼拝とは決まった型に押し込んだようなものではなく、完全に霊的なものです。
ですから私たちは礼拝において、御霊によって思い(たましい)が絶えず刷新され、変えられ続けて行く者でなければならないのです。
神のいのち(ゾーエー)が礼拝の中にあるなら、そこに神聖な霊の流れが感じられるはずです。
そうした霊の流れがないのは、ゾーエーのいのちがないからです。
私たちの霊から流れ出る神のいのちによってたましいが刷新されると同時に、私たちのからだを神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げるなら、神の(エックレーシア)教会はますますいのちに輝くに違いありません。