私のペンテコステ2023(その3)
私のペンテコステ2023(その3)
『聖霊と火のバプテスマ』
イエス、キリストは
愛する弟子ペテロに、
「ペテロよ、一切を捨てて我に従え」と、
命じました。
場合によっては親や子を捨てて妻と別れてでも従えと激しく言っています。
実際にそうせよと言っているのではありません。
切なる御前への飢え渇きをもって、
一切を捨ててでも主イェシュア、キリストに
付き従って行くんだという
気迫が
この信仰が聖霊に
満たされるためには必要です。
主、イェシュア、キリストご自身が
十字架に今も架かられて
御血汐を流されてでも
さらに上なる御霊の満たしを求めて
私たちに聖霊を注ごう注ごうと
なされておられるのです。
これは理屈ではありません。
全身全霊で
体験して歩いてみることです。
歩くとは生活するということです。
キリストか私たちに聖霊の油を、
神の霊を注ごうとされても
私たちが人間的な思いで
いっぱいであったら
キリストといえども
私たちを満たすということはありません。
キリストが無力だからではない。
ほんとうに私たちに
飢え渇きがあるかどうかてす。
こんな惨めな人生ではたまらない、
70年〜80年の、
地上だけのこんな儚(はかな)い
生涯だけではたまらない、
そういう心が開けてくるか
どうか、
なかなか人間
ここまでの心境にはなりません。
そして
何か物質的なことで
この世的な何かで
誤魔化し誤魔化し生きている。
それでは神の霊は注がれるということは
ありません。
現在どのように人から卑しめられ、
自分を卑しく思っていてもよい。
大事なことは、
切実に神の霊、
キリストの助けに
飢え渇いて御前に罷(まか)り出ることです。
必死な覚悟もって!飢え渇きもって!
罷りでることです。
御前に、
御前への飢え渇きこそ
ペンテコステの御霊
聖霊にバプテスマされるための
心備えです。
これらのことは、
あなたがたと一緒にいた時、
すでに語ったことである。
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
ヨハネによる福音書14.25~26節
イエス、キリストは最後の晩餐で聖霊が助け主としてやってきたペンテコステの状況を預言しています。
復活されたキリストは弟子達に幻のように現れ、天的な超自然的な上よりの力を、その身に着せられるまでは「都にあって祈りぬけ」と厳命されました。
これは主の命令であり主の遺訓です。
最後の遺訓です。
弟子たちは主の厳命を守り十日間、百二十名が集まり熱い祈祷会をしました。中にはイエスの生みの母マリアもいました。
世から極道者として十字架上に葬り去られた長男イェシュア。
母マリアは思ったでしょう。
「これが神の愛か?!」
と、
天道、是か非か!(てんどう、ぜかひか)と、
イエスの母マリア
天道、是か非か
「神様は愛だろうか」
母マリアだけではありません。
疑い惑乱の境地の中から祈り会に来ていた百二十名の者が皆、
〈必死になって祈った時〉
火のような風のような天的な霊火霊風が吹きまくり一同聖霊に満たされました。
そして弱かった、
十字架を前にして逃げてしまった
弟子たちが、
強き使徒と一変して
世界中にこの神の愛を伝道し
殆どの使徒はこの聖名(みな)の故に
殉教して参りました。
イェシュア、キリストと同じ様な生涯を送りました。
この出来事は今日も同様に起こります。
必死になって祈った時、
その時、彼らは上よりの霊火霊風
ペンテコステの御霊
聖霊に満たされてしまったからです。
ペンテコステは今も繰り返す。
その内容(聖霊に満たされる)において
繰り返す。
これが天の法則です。
『キリストは油注がれた者』です。
注がれた油は燃えねばなりません。
イェシュア、キリストこそ
父に油注がれ燃える
天来の火なるお方です。
私たちは是非ともこの
イェシュア、キリストが
天より持ち降し給うた
神秘な火に霊魂焼き尽くされ
不思議な生涯へと
躍入(やくにゅう)させられとうごさいます。
その時、
あなたはこの地上に生まれてきた目的を
ほんとうの意味で完成することになります。
どうぞ、
今回のペンテコステ
この天来の霊火霊風に
激しくバプテスマされて
御霊に満たされて
積極的な希望に満ちた生涯を
あなたさまがお歩きになられますよう
わたしも
主イェシュア、キリストの聖名によって
天の彼方より
大宇宙の底辺より祈っております。
アーメン
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