日本の残されし民より未来の全人類(選ばれし民)へ、シリーズ『神の御住まい(幕屋)』門、入口、垂れ幕(「わたしは門です」⑦

日本の残されし民より未来の全人類(選ばれし民)へ、

シリーズ『神の御住まい(幕屋)』

門、入口、垂れ幕(「わたしは門です」⑦

『“神に召された一人の偉大な指導者”が誕生すると、奴隷状況にあった一つの民族が解放されて、神の使命に生きる偉大な民族と変わりゆきます。その最初の選びがイスラエル民族にありました』。

神に出会い神の力に加持されたカリスマ的指導者、神の人、モーセの秘密力こそホレブの山での神と顔と顔を合わせての出会いの経験でした。

後に出エジプトしたイスラエルの民はこのモーセを指導者として40年間の荒野生活を通ってきたことはこれまでで学びました。

このイスラエルを導くモーセが常に神と顔と顔を合わせて交わっていた霊的な磁場が幕屋の中の最奥部(神の至聖所)です。

幕屋の学びを続けて参ります。


門、入口、垂れ幕(「わたしは門です」) - 牧師の書斎

  1. 「わたしは門です」

●聖書で神が語られる場合には、至聖所の部分から語られます。

しかし、私たちがそこに向かって行く時には、反対からです。

以下の図は、私たちが礼拝する流れを記しています。

最初の門を通って、大庭に入り、そして祭壇でいけにえをささげます。

イスラエルの民の場合はそこまでです。

後は、祭司たちが水で身をきよめ、聖所に入ります。

そこで祭司たちは聖所の中で燭台に火をともし、各部族分のパンを机に備え、そして香壇で香をたきます。

その奥は、大祭司のみ、年に一度、しかも血を携えて入ります。

ただしモーセは出入り自由でした。

神から呼ばれる時にはいつも至聖所に入って神の声を聞いたのです。

イェシュアが語られた門に関する三つのことばを取り上げたいと思います。

【新改訳改訂第3版】
ヨハネの福音書10章9節

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

●しかし重要なことがあります。単に、最初の入口を通って幕屋の大庭に入るだけではいのちを得ません。

さらに聖所の入口と至聖所の入口(垂れ幕)を通らなければいのちを得ないのです。

ただその二つの門は最初の入口よりも半分の広さしかありません。つまり「狭くなっている」のです。

それゆえ、イェシュアは警告して次のように言われました。

【新改訳改訂第3版】
マタイの福音書7章13~14節

13

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

14

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

●新約聖書で使われている「門」と訳されたヘブル語は、いずれも「ペタハ」(פֶּתַח)で、「入口」とも訳されます。

【新改訳改訂第3版】
ルカの福音書 13章24節

努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。

●ここで「努力して」とはどういう意味でしょうか。

多くの日本語訳を見るとどれもみな「努力する、全力を尽くして、懸命に」という意味で訳されています。

それもそのはず、原文のギリシア語は「アゴーニゾマイ」αγωνιζομαιという動詞が使われており、その語義は「競技で勝敗を競う、福音のために苦闘する、獲得しようと努力奮闘する」ことだからです。

使われているギリシア語の語義がそうであったとしても、そこでの文脈は神の国について「からし種」と「パン種」の二つのたとえが語られた後です。

前者のたとえはきわめて小さくてもやがては全地を支配するようになることを意味し、後者は目には見えなくてもやがては内に拡大する力をもっていることを表わしています。

神の国は今は小さく目に見えずとも、やがては全地をおおうほどに拡大することが語られた後に、先のことばが語られています。

「狭い門」が意味するのも同じです。

狭い所に大勢の者が押しかけることで狭き門というのであれば、「アゴーニゾマイ」αγωνιζομαιでも構わないはずです。

しかしここで言われている「狭き門」とは「それを見出す者がきわめてまれである」という意味です(マタイ7:13~14も参照)。

とすれば、「努力して」という言い回しはどうみても不自然です。

●そこでヘブル語ではどう訳しているかを調べてみると、そこに使われいる語は「アーマツ」の強意形ヒットパエル態の命令形「ヒットアンメツー」(הִתְאַמְּצוּ)です。

「強くあれ、雄々しくあれ」という有名なフレーズがあります。ヘブル語で「ハザク・ヴェ・エマーツ」と言います。

後者の「エマーツ」אֱמָץが「アーマツ」אָמַץの命令形です。

つまり、これは「雄々しくあれ」という激励用語です。このフレーズが語られた背景には、目に見える敵に対する「恐れ」がありました。

わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。

(ヨシュア記1:9)

しかし、ルカ13章24節のことばの背景にあるものは、マイノリティー・コンプレックス。つまり、マイノリティー(少数であること)に対する恐れです。

ルカ12章32節にも「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがのたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」とあります。

小さいこと、少ないことを恐れる者に、イェシュアは、神の国は将来必ず実現することを語り、「多くの者たちが見向きしないことであっても、勇気をもって神の国を求め続けることを堅く決心せよ」と励ましているのです。

●「寄らば大樹の陰」ということわざがあるように、だれでも大きいことや多いことは、安心ができ、良いことだと考えます。

ですから、多くの者たちがそうした門から入り、そうした道を歩もうとします。

しかし、イェシュアの言われるのはそれとは逆です。

多くの者たちが見向きしない門、注目しない道を歩むためには、マイノリティー・コンプレックスに陥ることなく、常に「雄々しくあり続ける」ことが必要なのです。

したがってここは「努力して」というよりも、「自ら雄々しくあって、狭き門から」と理解する方が自然な気がします。

●すべて神を礼拝する者たちは、この東にあるただ一つの門を通らなければなりませんでした。

ユダヤ人も異邦人も、割礼の有無、奴隷も自由人も一切区別なく、すべての者が東の門から入らなければなりません。

東から西へ向かって、これが礼拝の順序でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?