シリーズ「霊の中に生きる」 No.10人の霊(10)⑤
シリーズ「霊の中に生きる」 No.10
人の霊(10)⑤
生命を与える御霊=新創造の霊
『人の霊は神と人がともに住む家そのもの』
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。
シリーズ「霊によって生きる」の第十回目です。
今回も「人の霊」について扱います。
今日はその第5回目です。
『祭司としての務め』
「祭司」とは「神に仕える人」です。
「仕える」といっても、神のために何かをするということではなく、いつも神の御前にいる人のことです。
神とともに歩み、神のことばを食べることで、神を知って、神と一つになる人。多くの時間を神とともに過ごすことで神に満たされ、神の豊かな知恵と知識に満たされている人を言います。
これが祭司としての務めであり、これが「御子の似姿(דְּמוּת)となる」ということです。
こうした務めを回復させるために、人の霊の中におられる御霊が、継続的に今でもとりなしておられるのです。
私たちが霊の中に生きるとは、王なる祭司として整えられるように造り変えられることを意味します。
しかもこの事実を霊の中で信じることが、聖書のいう「信仰」(「ピスティス」πίστις)です。
すべては、聖書は「恩寵先行・信仰後続の論理」が基調となっています。
神のなされた事実が信仰に先立つという論理です。
神のなされた事実を正しく理解していなければ、信仰の内実も怪しくなります。
たとえば、「益」ということばが、私たちにとって都合の良い肉の「益」と理解されてしまいます。
神の事実が信仰の前に先立たなければなりません。
そうするときに、信仰が実体化される(=目に見えるかたちになる)のです。
つまり、「御子のかたちと同じ姿になる」ということが目に見えるものとなっていくのです。
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「いのちを与える御霊の務め」
「いのちを与える御霊の務め」は地における奥義的な務めと言えます。
パウロが「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)と宣言しているように、
すでに神による新創造(New Creature)が開始されています。
「古いものは過ぎ去って」の「過ぎ去って」はアオリスト(過去)です。
しかし「新しくなった」の「なった」(「ギノマイ」γίνομαι)は現在完了形で、新しくなったことが今も継続していることを意味しています。
それは、人の霊の中にある御霊の奥義的務めによって継続されているのです。
人の霊は神と人がともに住む家そのものであり、それは御国(神の国)そのものと言えます。
それゆえイェシュアは、「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)と語っています。
キリストは人の霊を新しく回復(新創造)して、神の国は今もなお「御子のかたちと同じ姿になる」ことに向かって継続しているのです。
これが地における御霊の奥義的な務めです。
ちなみに、旧約の幕屋を造る目的は「わたしは彼らのただ中に住む」(出25:8)ことでした。
それは、人の霊の中にキリストが「いのちを与える御霊」となって入ることで神と人がともに住むということの予型だったのです。
ヨハネ伝の作者を通してイェシュアは言います。
「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。
わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。
ヨハネによる福音書14章18ー20節
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