シリーズ「霊の中に生きる」 No.16人の魂(32)
シリーズ「霊の中に生きる」 No.16
人の魂(32)
「シェーム・イェシュア」の御名の絶対性
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。
シリーズ「霊の中に生きる」の第16回目です。
「人のたましい」について扱っております。
今日はその第32回目です。
3. 「自分」という意識の根源
●何度も繰り返して語られている「自分」という意識の根源は、一体どこから来ているのでしょうか。
人は日常意識の表面上にて、このことすらも考えることがないほど、「自分意識、自己意識」を自然なこととみなしています。
しかもサタンはこのことに覆いを掛けているのです。
サタンの語源である動詞「サータン」(שָׂטַן)は「敵対する」という意味ですが、サタン(「サーターン」שָׂטָן)は最初から神に敵対する者ではありませんでした。
あくまでも御使いの一人だったのです。
【新改訳2017】ヨブ記38章4~7節
4
わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。
分かっているなら、告げてみよ。
5
あなたは知っているはずだ。だれがその大きさを定め、だれがその上に測り縄を張ったかを。
6
その台座は何の上にはめ込まれたのか。あるいは、その要の石はだれが据えたのか。
7
明けの星々がともに喜び歌い、神の子たちがみな喜び叫んだときに。
●「明けの星々」「神の子たち」とは「御使いたち」を意味します。
彼らは、地の基が据えられる前から神によって造られた霊的な存在です。
すぐれた知性と力を持つだけでなく、神を賛美し、そして「ともに」(副詞「ヤハド」יַחַד)、「みな」とあることから、御使いたちの間には完全な調和があったことが分かります。
イェシュアもご自身のことを「明けの明星」(Ⅱペテロ1:19、黙示録2:28, 22:16)と言っていますが、それは朝が訪れる前の「ひときわ目立つ存在」(単数)としての表象です。
●しかし、以下の箇所の「明けの明星」はイェシュアでなく、サタンを指しています。
【新改訳2017】イザヤ書14章12~14節
12
明けの明星、暁の子よ。どうしておまえは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしておまえは地に切り倒されたのか。
13
おまえは心の中で言った。
『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』
●ここの「明けの明星」は「ヘーレール」(הֵילֵל)で、旧約ではここにしか使われていません。
これをラテン語では「ルシファー」(Lucifer)と訳しました。
「へーレール」の動詞「ハーラル」(הָלַל)のヒフィル態は「輝かす、照らす、(光を)放つ」を意味します。
また「暁の子」は「ベン・シャハル」(בֶּן־שַׁחַר)で「夜明けの子」を意味します。
このイザヤ書14章は直接的にはバビロン王に対して書かれていますが、同時にサタンが重ねられています。
サタンは御使いの中で「ひときわ目立つ存在」であったので、「明けの明星、暁の子よ。どうしておまえは天から落ちたのか」と神は問いかけているのです。
バビロン王(サタン)が「天から落ちた」理由が、以下の五つの「私は・・しよう」という言葉に表されています。
①「私は天に上ろう」(אֶעֱלֶה)・・・・・・・・「アーラー」(עָלָה)
②「私は、私の王座を上げよう」(אָרִים)・・・「ルーム」 (רוּם)
③「私は・・で座に着こう」(אֵשֵׁב) ・・・・「ヤーシャヴ」(יָשַׁב)
④「私は、・・・に上ろう」(אֶעֱלֶה)・・・・・「アーラー」(עָלָה)
⑤「私は、いと高き方のようになろう。」(אֶדַּמֶּה)・
(ヒットパエル態:似るようになる)・・・・・・・「ダーマー」(דָּמָה)
これらのバビロン王の心の思いには、いと高き方と等しくなろうとするサタンの高慢な野心(欲望)が重ねられています。
バビロンの王とは絶対主権を持ち、彼が言うことは即、法律となるような存在でした。
同じようにサタンは私たちのたましいに足場を築いて、「神」によって生かされるのではなく、「自分」を主体とさせることで、私たちが神に背くようにしているのです。
そのようなサタンから解放されて生きるためには、「シェーム・イェシュア」と呼ぶことです。
「シェーム・イェシュア」によって、聖書を読み、主のことばに従うことです。
「シェーム・イェシュア」こそ、一連の贖いのみわざを通して、主が私たちに与えてくださった最強の力なのです。