シリーズ「霊の中に生きる」 No.13人の霊(13)②
シリーズ「霊の中に生きる」 No.13
人の霊(13)②
主の家において
「神の御顔を仰ぎ見る」
(黙示録22:4)。
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。
シリーズ「霊の中に生きる」の第13回目です。
今回も「人の霊」について扱います。
今日はその第2回目です。
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
マタイ5.8
「心のきよい者は幸いです」をヘブル語にすると「アシュレー・バーレー・レーヴァーヴ」 (אַשְׁרֵי בָּרֵילֵבָב)となります。
「バーレー」(בָּרֵי)は「バル」(בַּר)の複数形です。
「バル」とは息子を意味し、御子イェシュアを指し示します。
つまり「心のきよい者(複)」とはイェシュアにつながる者たちであることを意味しています。
というのは、「人の心は何よりもねじ曲がっている。癒しがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。」(エレミヤ書17:9)とあるように、私たちの心は絶望的な状態にあるのですが、そのような者を神はイェシュアの血潮を通して「心のきよい者」たちとしてくださり、やがて神を見るようにさせてくださるのです。
ちなみに、「神を見る」の「見る」(「ホラオー」ὁράω)をヘブル語に戻す時に、二つの語彙が用いられています。
一つは「ラーアー」(רָאָה)の未完了形、もう一つは「ハーザー」(חָזָה)の未完了形です。
この語彙の違いは何なのでしょうか。
前者が直接的であるのに対し、後者は間接的と言えます。
間接的というのは、主ご自身に附随するものを「見る」ということで、主ご自身の「麗しさ」や「力」や「栄光」であったり、あるいは、主のなされる「みわざ」や「復讐」であったりを「見る」ことです。
つまりそれらも含めて、やがてキリストの再臨によって完成される御国において「神を見る(仰ぎ見る)」ということが実現するのだと考えられます。
エデンの園で主の御顔を避けた人間が、主の家において「神の御顔を仰ぎ見る」(黙示録22:4)。
これこそが神のご計画の完成、救いの成就を意味しています。
前頁①のみことばは、詩篇73篇の冒頭であ
り、作者アサフが霊的な葛藤の果てに得た結論として記されています。
その結論とは「まことに 神はいつくしみ深い。イスラエルに 心の清らかな人たちに」でした。
ここでの「清らか」というヘブル語には「バル」(בַּר)が使われています。「バル」は「息子、子」、および「穀物、小麦」をも意味します。
形容詞としての「バル」(בַּר)は「混じり気のない、きよい」状態を意味します。
これらは預言的に、「息子」は神の御子イェシュアを指し示し、「穀物(小麦)」も人となられたイェシュアの人性を指し示しています。
しかもそれは御父に謙遜に仕えたイェシュアの姿です。
これは詩篇1篇にある、主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ「その人」(詩篇1:3)、すなわちイェシュアを啓示しています。
「その人」を信頼する人々を、詩篇73篇では「心の清らかな人たち」と預言的に語っているのです。
神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。
詩篇73.1
「預言的」というのは、やがて神がそのようにしてくださるという意味です。