シリーズ「霊の中に生きる」 No.5人の霊(5) ③
シリーズ「霊の中に生きる」 No.5
人の霊(5) ③
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです
たましいと霊を見分けて生きる(補講)
「たましい」を構成する「知・情・意」を「心」とか「精神」と言いますが、聖書ではそれを「霊」に対応する語彙として、「肉」(「サルクス」σάρξ)と表現しています。
「肉の思い」は神に対して反抗する性質を持っています(ローマ8:7)。
なぜならそこにサタンが自分の足場を置いているからです。
サタンは悪霊たちを用いて人を偽りの神(=偶像)に向けさせて、それに頼るように仕向けています。
ですから、心で神を知ることも、神を愛することもできなくなってしまったのです。
私たちの「たましい」(心)は曲者です。
それは「自我・自分本位」であるからです。
エレミヤは「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。」(エレ17:9)と言っています。
ノアの時代に滅びた人々と何ら変わっていないのです。
特に、日本人は心や心情を大切にします。美しいものだと感じさせます。その美しさに心が奪われている人ほど、神を知ることが出来ないのです。
サタンの本来の姿は、神の被造物の中で最も賢く、最も美しい存在(御使い)であったことを忘れてはなりません。
心、たましい、精神と訳される「ネフェシュ」は人間を表現する媒体ですが、神がそれを全く新しいものとして回復してくださらない限り、その思いは神に敵対するものになってしまうのです。
「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、知性を尽くして、神を愛するようになる」ためには、人の霊が回復され、そして「霊の中に生きる」ことがなければならないのです。
「心」は神が造られたものであり、人が自分を表現する上で大切な機能をもっています。それゆえに、心が神の霊と人の霊からの指令を受けるべく、新しく造られる必要があったのです。
つまりキリストによる新創造がなされる必要があり、キリストの贖いの一連の出来事が不可欠だったのです。
以下の図がそのことを記しています。