シリーズ「霊の中に生きる」 No.8人の霊(8)⑤
シリーズ「霊の中に生きる」 No.8
人の霊(8)⑤
霊の中で神のことばを聞く
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。
シリーズ「霊によって生きる」の第八回目です。
今回も「人の霊」について扱います。
今日はその第五回目です。
(3) 御霊の助けとしてのとりなし
信仰はわたしたちの霊の中に起こります。それをたましいで理解しようとするなら、疑いのゆえに、信じることは困難となります。
なぜなら、たましい(知・情・意)はサタンが足場を築いているところだからです。
しかし、霊の中で神のことばを聞くことで信仰が生まれます。
イェシュアが復活されて「いのちを与える御霊」となられて人の霊の中に入られたということは、私たちのために御霊が神(御父)にとりなしをしてくださるのです。
なぜなら、私たちは神のみこころについて知らないために、どう祈ったらよいのかわからないからです。
【新改訳2017】
ローマ人への手紙8章26~27節
26
同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
27
人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。
26節に「御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださる」とあります。
ペンテコステ派の人たちは、「ことばにならないうめき」を「異言の祈り」として理解し、異言で祈ることが御霊ご自身のとりなしであると理解しています。
“グローサ(=異言)の聖別”
“このグローサ(=異言)は上からの初歩的賜物であるから、この賜物(グローサ=異言)はますます聖別を要します。
聖霊によって聖められ、私たちの実存が『栄光から栄光へと主と同じ姿に化体しゆくまで』
聖別に取り組まねばならないことは、これグローサ(=異言)を与えられた信者に対する使命であり戒めでもあります。
何にも増して求めなければならないことは、イェシュアなるメシア「聖霊の愛」ご自身を求めることです。(コリント前12.31)
わたしたちは、更に大いなる賜物(御愛)を得ようと、熱心に努めねばなりません。”
“グローサ(=異言)が与えられることは恩寵は上なる神からの恩寵ですが、グローサ(=異言)が与えられた程度で止まっていてはいけません。
上には上があります。”
“しかし、、、”
しかし異言で祈らない人たちにも、御霊ご自身がとりなしてくださるのは確かな事実です。
内なる霊が与えられた弟子たちは異言で祈っていません。弟子たちが異言で語ったのは、力としての御霊を着せられた五旬節の時です。
ですから、神のみこころを知るためにとりなされる御霊は、異言を語っていなくても与えられているのです。
驚くべきことに、神に選ばれた私たちを罪定めする者(サタン)に対して、天において御父の右におられる御子が私たちのためにとりなしをしてくださっているともあります。
【新改訳2017】
ローマ人への手紙8章33~34節
33
だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
34
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
この神の事実を、信仰をもって聞くならば、最強の勝利者として実体化される(目に見えるものとされる)のです。
まさに御子と御霊が御父に対して相互的に、かつ同時的にとりなしをしているのです。
神と人がこのようなかかわりでつながっているのです。
聖書は、この神と人とのつながりを「天と地を創造した(預言的完了形)」(創世記1:1)で表現しているのです。
これが神のご計画でもあります。
御霊が神のみこころを知って、私たちの霊の中でとりなしてくれるので、やがて私たちは神を完全に知ることが可能となるのです。
31:33
しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
31:34
人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしイェシュアなるメシア)を知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。
(エレミヤ書31:33~34)。
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