シリーズ「霊の中に生きる」 No.10人の霊(10)④
シリーズ「霊の中に生きる」 No.10
人の霊(10)④
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。
シリーズ「霊によって生きる」の第十回目です。
今回も「人の霊」について扱います。
今日はその第4回目です。
『神の似姿』キリストのエックレーシア
パウロはまた、8章28節で「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」と述べています。
有名な聖句ですが、ここでの「すべてのこと」の中には、神の敵の諸々の働きも入っています。その敵の活動さえも、主の主権的な働きによって「益となる」としています。
その「益」とは、主にある私たちが「御子のかたちと同じ姿になる」ことを意味しているのです。
●御子のかたちの「かたち」はヘブル語の「ツェレム」(צֶלֶם)です。ツェレムは御子を目に見えるかたちとして表現すること、あるいは、御子を入れる「器」となることを意味しています。
御子を表現する人を「外なる人」とも言い換えられます。
他方、御子と同じ姿の「似姿」はヘブル語の「デムート」(דְּמוּת)です。これは「内なる人」とも言い換えられます。
ちなみに、この二つのことばは、神が神格会議で話し合われたものでした。
【新改訳2017】創世記 1章26節
神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
神の「かたち」が「ツェレム」、「似姿」が「デムート」です。特に神の「似姿」は権威を与えられた「王なる祭司の務め」を意味します。
この務めはエジプトから解放されたイスラエルの民に対する使命として期待された務めでした。
イェシュアが復活されたことで、私たちも長兄である御子と同じ務めをする兄弟とされたのです。
その長兄であるイェシュアの務めとは「王なる祭司の務め」です。
それは創世記2章15節に「神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた」とあるように、「最初のアダム」に与えられた務めですが、最初のアダムは神のかたちに似せて造られた存在であるということです。
その反対ではありません。
話を戻しますが、アダムに与えられた「耕す」(「アーヴァド」עָבַד)という務めが「祭司としての務め」であり、「守る」(「シャーマル」שָׁמַר)という務めが「王としての務め」です。
この二つで「王なる祭司の務め」をすることが「最初のアダム」に与えられていたとするなら、「最後のアダム」であるイェシュアがそれを回復することは当然のことです。