シリーズ「霊の中に生きる」 No.7人の霊(7) ⑥
シリーズ「霊の中に生きる」 No.7
人の霊(7) ⑥
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。
●ヨハネの福音書15章から「いのちのしるし」としてイェシュアが弟子たちに語っておられる三つのことばを選び、それについて考えてみましょう。
今回はその1です。
(1)
<親しさ>・・「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。」
(4節)
いのちのしるしの第一は「とどまる(メノー)」ことです。
「わたしにとどまる」ことが、7節では「わたしのことばがあなたがたにとどまる」と言い換えられ、9節では「わたしの愛にとどまりなさい」と言い換えられます。
これはイェシュアのなされた一連の事実と、イェシュアのことばと、その愛と光の中にとどまることを意味しています。
「とどまる」(「メノー」μένω)
「とどまる」(「メノー」μένω)という語彙は、「住む」「つながる」「結ばれる」「宿る」ことを意味する語彙です。
特に「一つとなる」という意味のヘブル語は「ダーヴァク」(דָּבַק)です。
その初出箇所は創世記2章24節で、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」の「結ばれ」に使われています。
もし、この24節を「たましい」で理解するなら、親から自立した家庭を築きなさいという倫理道徳の教えとなりますが、「霊」で聞くならばそういう理解にはなりません。
「父と母を離れる」その真意はイェシュアが来られることで初めて明らかにされるのです。
「父と母」とは、ユダヤ教の「神殿」および「律法主義」のことです。
これが父と母の意味であり、男を啓示するイェシュアと妻であるエクレシア(教会)が結ばれるためには、「父と母を離れなければならない」という教えが隠されています。
エクレシア(教会)につながる私たちはキリストとともに、宗教であるユダヤ教から「離れる」(=見捨てる)ことを通して、はじめて一体になることを告げている預言的なことばなのです。
立派な家庭を築くための教えならば、世の中の人でも当たり前に知っていますし、それを実践しています。
ここでは神と人がともに住むためには、宗教を見捨てる(見捨てられる)ということで結ばれ、一体となることを啓示しています。
いずれにしても、「とどまる(住む、宿る、座す)」ということばがそのような結びつきを含んでいるということなのです。初代教会におけるステパノのような弟子たちはその模範です。
パウロに大きな影響を与えた人物ーステパノとの出会い - 牧師の書斎
私たちはキリストの言葉の中に留まっているならば本当のキリストの弟子です。
8:31 イェシュアは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
8:32 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。
ヨハネによる福音書8章31〜32説
イェシュアが『ほんとうにあなたはわたしの弟子である』と言われる弟子とはどういう弟子なのでしょうか、
いつもキリストの御声が響いてきてならないような雰囲気の中にある、神の言葉とすっかり一つになった境地にある者こそキリストのまことの弟子です。
「ああ神よ、問題があります。どうしましょう」と言ったら、キリストの神さまが「ウン、ウン」とすぐ応えてくださる。
密接な神との合一、神と一つになった神秘的な関係こそ何がなくても求めてやまないキリストの花嫁として持つべき信仰です。
シェーム、イェシュアの聖名を霊の底べより賛美いたします。
シェーム、イェシュアの御名