シリーズ「霊の中に生きる」 No.18 人の救い⑥【麗しきシェーム、イェシュアの御名】
シリーズ「霊の中に生きる」 No.18
人の救い⑥
【麗しきシェーム、イェシュアの御名】
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。
シリーズ「霊の中に生きる」も第18回目 「人の救い」についてまで来ております。
今回はその『人の救い』の第6回目です。
●2023.10.1~8 The 2nd Celebrate Sukkot
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【新改訳2017】ヨハネの福音書15章4~5節
4
わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。
枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。
わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
●長い間、このイェシュアの語られた「とどまる」ということばの意味を私は理解することができませんでした。
これは、私たちが霊の中に生きることを言っているのです。
ですから、「霊を働かせる」ことがなければ、実を結ぶことはできないのです。
この場合の「実」とは何でしょうか。
その「実」とはイェシュアと一体となることによって結実してくる果実、またその種です。
これは私たちのたましい(心)でしようとしてもできません。
たましいはからだとともに「肉」です。「肉」は神に敵対する性質を持っているために、「とどまる」(=霊の中に生きる)ことができないのです。
「とどまる」ために霊を働かせなければなりません。
霊を働かせるにはどうすれば良いのでしょうか。
それは「主の名」(シェーム・イェシュア)を呼ぶことです。
「ええ? これだけ」と思われるかも知れませんが、これだけで十分なのです。他の言葉は要りません。
預言者エレミヤに神は言われました。『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』
(エレミヤ33:3)
●「わたしを呼べ」とあるように、「シェーム・イェシュア」これだけで天の窓は開きます。
「主の名を呼び求める者は、だれでも救われる」、これだけでだれでも救われるのです。
「主の名を呼ぶ」ということが霊を用いる、あるいは霊を働かせることになるからです。
いろいろな説明的な祈りの言葉は要りません。ただ「シェーム・イェシュア」と「名を呼ぶ」、それは霊の祈りだからです。
以下のように、「アバ、父」でもOKです。
【新改訳2017】
ローマ人への手紙8章15~16節
15
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
16
御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
[補説]
「アバ、父」をヘブル語では「アバ(=父)」だけでOKです。
「シェーム・イェシュア」でもOKです。なぜなら、イェシュアとアバは一つだからです。でも「名を呼ぶ」なら「シェーム・イェシュア」でしょうね。
そのとき、私たちを閉じ込めている恐れの霊から解放されるのです。人間は生まれながら、この「恐れ」に閉じ込められているのです。
その扉を私たちは自力で開けることはできません。
すべての名に勝る「イェシュアの名」であるお方しか、その幽閉の扉を開けて私たちを救い出してくれる方はいないのです。
まさにこの「イェシュアの名」、「シェーム・イェシュア」こそ麗しき御名なのです。