シリーズ「霊の中に生きる」 No.9人の霊(9)④
シリーズ「霊の中に生きる」 No.9
人の霊(9)④
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。
シリーズ「霊によって生きる」の第九回目です。
今回も「人の霊」について扱います。
今日はその第四回目です。
3. 私たちをキリストのうちに取り込んだのはいつか
私たちが「キリストとともに死に、キリストとともによみがえり、キリストとともに昇天し、キリストともに座る」ために、いつから私たちはキリストのうちに取り込まれたのでしょうか。
二つの見方があります。一つはイェシュアが受肉された時、もう一つはイェシュアが三十歳の時、つまり、公生涯の始まりに洗礼を受けられた時です。
イェシュアの洗礼は私たちの洗礼とは異なり、悔い改めの洗礼ではありません。
それは「最初のアダム」に属する私たちを終わらせるために、私たちを取り込んで私たちと一体なられるためのです。
私たちを取り込んで私たちと一体となるためには、イェシュアが人とならなければなりません(受肉)。
しかし、そのことが自覚的になされた時が洗礼の時と考えられます。
マタイにおけるイェシュアはアブラハムから踏み直しをしていますが、ルカにおいては「最初のアダム」から踏み直しをしているのです。
その証拠に、イェシュアの洗礼の後に「イェシュアからアダムに至るまでの系図」が記されています。
【新改訳2017】
ルカの福音書3章21~38節
21
さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。
そして祈っておられると、天が開け、
22
聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。
すると、天から声がした。
「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
23
イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。
ヨセフはエリの子で、さかのぼると、
24
マタテ、レビ、メルキ、ヤンナイ、ヨセフ、
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38
エノシュ、セツ、アダム、そして神に至る。
これはイェシュアが「最初のアダム」から踏み直そうとしていることを示しています。
イェシュアの十字架の死は「最初のアダム」を終結させて、新たに「最後のアダム」による新しい人を創造するためでした。
それが「肉ではなく、霊の中に生きる」人です。
コリント前書はこう記します。
コリント人への第一の手紙15章45節〜49節
15:45
聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。
しかし最後のアダムは命を与える霊となった。
15:46
最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。
15:47
第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。
15:48
この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。
15:49
すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。と、
ちなみに、ルカは使徒パウロの弟子です。
ルカの福音書もパウロが死んだA.D.68年以降から80年頃までの間に書かれています。
彼はパウロの言ったことを理解した人です。
パウロの包括的概念を正しく理解した弟子なのです。
ですから、全被造物とともに人がキリストのうちに取り込まれたのは洗礼の時だとしていることが分かるのです。