シリーズ「霊の中に生きる」 No.4人の霊(4) ③

人の霊(4) - 牧師の書斎

ユダヤ教で神殿に仕えるサドカイ派はモーセ五書のみを正典としています。後の「預言書」と「聖文書」はその解釈および参考書としての位置づけです。

しかし、律法を重んじるパリサイ派はモーセ五書のみならず、預言書も諸書も正典としています。

共通するのは「モーセ五書」です。

この「モーセ五書」が、五千人の給食のしるしでは「五つのパン」にたとえられています。

そして、「預言書」と「聖文書」は「二匹の魚」にたとえられています。つまり「五つのパンと二匹の魚」はタナフを指し示しているのです。

二匹の魚モザイク

弟子のアンデレは、「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」とイェシュアに現状を訴えています。

ところがイェシュアはそれを取って、大勢の群衆の望むだけを与えられたのです。群集はイェシュアがなさったことを見て、イェシュアのことを「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言いましたが、これはたましいの反応です。

霊の反応ではありません。群衆はこれらのパンと魚を文字通りの意味として理解したからです。

ところがそのしるし(奇蹟)の後で、イェシュアがこのしるしの意味を教えました。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」(ヨハネ6:53)と。

これを聞いた多くの弟子たちは「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか」と言って、つまずいてイェシュアから離れて行きました。

この箇所で最も重要なフレーズは12節のイェシュアのことばです。

それは「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」です。

このしるしは、タナフが当時の人々にいのちを与えることができないことを示しているのです。と同時に、イェシュアを食べる者はイェシュアによって生きること、イェシュアが与えるいのちのパンは無尽蔵であるということを啓示する出来事だったのです。

「五つのパン」が「五千人」の食を満たしました。これは「五」の千倍です。ヘブル語の「千」は「一」と同じく「アーレフ」(א)で表します。

ヘブル語の「千」は最高の単位ですが、それは同時に「完全で終わりがない」、つまり「永遠の無尽蔵」を意味するのです。

「モーセ五書」は人を生かすことはできないが、「五千」という数は単なる五千ではなく、イェシュアが与えるパンが神のことばとして無尽蔵なものであることを啓示しているのです。


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