日本の残されし民より未来の全人類(選ばれし民)へ 。シリーズ幕屋の庭(囲い)とその象徴的意味 - ②
日本の残されし民より未来の全人類(選ばれし民)へ 。
シリーズ
幕屋の庭(囲い)とその象徴的意味 - 牧師の書斎 ②
『“神に召された一人の偉大な指導者”が誕生すると、奴隷状況にあった一つの民族が解放されて、神の使命に生きる偉大な民族と変わりゆきます。その最初の選びがイスラエル民族にありました』。
幕屋の庭(囲い)とその象徴的意味②
神に出会い神の力に加持されたカリスマ的指導者、神の人、モーセの秘密力こそホレブの山での神と顔と顔を合わせての出会いの経験でした。
後に出エジプトしたイスラエルの民はこのモーセを指導者として40年間の荒野生活を通ってきたことは前回のシリーズで学びました。
このイスラエルを導くモーセが常に神と顔と顔を合わせて交わっていた霊的な磁場が幕屋の中の最奥部(神の至聖所)にてでした。
幕屋の庭(囲い)とその象徴的意味 - ②
幕屋を長さと幅の数字的意味
「五千⼈の給⾷」の奇蹟にある「五つのパンと⼆匹の⿂」は有名です。
貧しいながらも、それを主に差し出すことで奇蹟的な神のみわざがなされるという意味で解釈されることが多い箇所です。
こうしたメッセージは、教会の会堂建設や何かのプロジェクトを進める場合の励ましのメッセージとしては都合の良い解釈です。
各⾃の賜物を活かし合うことで予想をはるかに超えた神のわざを⾒ることがしばしばあるからです。
確かにそうしたメッセージは聖書の中にあることも事実ですから、間違ってはいないと思います。
しかし、この奇蹟を「御国の福⾳」という視点から⾒るならば、また別の解釈が可能なのです。
【新改訳改訂第3版】
マルコの福音書6章38~44節
38
するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。
「五つです。それと魚が二匹です。」
39
イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。
40
そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。
41
するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。
また、二匹の魚もみなに分けられた。
42
人々はみな、食べて満腹した。
43
そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。
44
パンを食べたのは、男が五千人であった。
●おそらく、上記の聖書の箇所であまり関心を抱かない部分があるとすれば、それは40節の「そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。」という部分ではないかと思います。
なぜ「百人、五十人」なのでしょうか。
たとえ「パンを食べたのは、男が五千人であった」ということを了解したとしても、「百」と「五十」の数、そしてその「2対1」という比率をもって、「それぞれ組にして青草の上にすわらせ」たという意味は、幕屋について学んだことのない人にとっては全く分からないはずです。
●この「五千人の給食」の奇蹟は、イェシュアと幕屋が一つであることを示唆しているのです。
つまり「神が人とともに住む」という御国の福音を、イェシュアが奇蹟という形でデモンストレーションしようとした出来事なのです。
福音書には「五千人の給食」だけでなく、「四千人の給食」の奇蹟も記されています。
なぜ、似たような奇蹟をわざわざ記しているのでしょうか。
その必要性はどこにあるのでしょうか。
それは、「五千人の給食」はメシア王国についてであり、「四千人の給食」は「永遠の御国における福音」、つまり最終的な「神の幕屋が人とともにある」(黙示録21:3)という「新しいエルサレム」の啓示であるからです。
「新しいエルサレム」は幕屋の最も聖なる部分である「至聖所」を啓示しているのです。
詳しくは、「ヘブル・ミドゥラーシュ例会(第三回)」の中の「「五千人の給食」と「四千人の給食」に見る「御国の福音」のヴィジョン」を参照のこと。
●このように、モーセの幕屋を学ぶことの必要性は、神の御子イェシュアがこの世に来られて語った教え、あるいは、行なった奇蹟と深く結びついていることを理解するためです。
別の言い方をするならば、「モーセの幕屋」を学ぶことは、聖書を「ヘブル的視点から新しく読み直す」ことになると言えるのです。
今日、一般的傾向として、ペンテコステ系の教会では幕屋について語られることが比較的多いように思います。
しかし、福音派と言われる教会では、ほとんど幕屋について(説教や聖書研究で)語られることが少ないように思います。
そのために、聖書全体における旧約と新約を結ぶ神の緻密なご計画について知ることの脆弱性があるのは否めません。
つまり、聖書を横に読んでいないということです。
そのために聖書を鳥瞰的に理解することにおいて弱いのです。
教会学校の教案誌を見るならば、それは一目瞭然です。
神のご計画は神の歴史の中に啓示されているにもかかわらず、大人も子どもも聖書を横に教えられていないために、聖書全体が一つに繋がってこないのです。
それに対する解決の鍵は、「ヘブル的視点」から、あるいは「御国の福音」の視点から、聖書を読み直すことにあると信じます。
次世代における教会を考えるならば、これは緊急を要する、きわめて重要な課題と言えるのです。