シリーズ「霊の中に生きる」 No.5、人の霊(6)⑤
シリーズ「霊の中に生きる」 No.5、
人の霊(6)⑤
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。
B ヨハネの場合
【新改訳2017】ヨハネの福音書3章6節
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
御霊によって生まれた者の「霊」とは「人の霊」のことです。つまり、御霊によって生まれるのは機能不全を起こして死んだようになっていた人の霊のことです。
肉とは人の「たましい(心=知・情・意)とからだ」を含む語彙です。
ここでは人の霊と肉が対照的に示されているのです。
肉は人を新しくすることはできませんが、人の霊が回復し、新しくされることで、人のたましいとからだも新しく生まれるのです。
神の新しい創造は私たちの霊(深層意識の一番深い部分、シークレットプレイス)から始められるのです。
このように、聖書が「人の霊」について記していることは一目瞭然です。そこで次に、「人の霊」が神のいのちを入れる容器であることを考えたいと思います。
3. 人の霊は神のいのち(宝)の器
【新改訳2017】
Ⅱコリント人への手紙4章7節
私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
このパウロのことばを味わいたいと思います。
味わえば味わうほど非常に味わい深い言葉です。
これはまさしく神からの言葉です。
まず「私たちは、この宝を」とあります。
「この宝」とは何でしょうか。
それはその前の節にある「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」のことです。
「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」という表現は、イェシュアのうちに神の栄光を見るという偉大な思想が語られています。
イェシュアが「わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)と言われたように、ここでパウロは、イェシュアをいつも見続けるならば、神の栄光が私たちにも理解できるようにしてくださったのだと語っているのです。
「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ(表現)」(ヘブル1:3)です。
「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」こそ土の器の「宝」なのですが、この知識は膨大なもので、御霊が「人の霊」の中に働いて人の心を照らすことで輝かせてくださったものだとしています。
つまりここでの「人の心」とは「霊によって造り出された新しい心」ということができます。
「土の器」の「土」も「器」もいずれも複数形です。つまり「土で作った数々の器」を意味します。
その器の中に「宝」を持っているというのです。
「宝」(「セーサウロス」θησαυρός)は単数形です。
これは文脈で見るなら、「キリストの香り」「キリストの手紙」と同様に「キリストの福音」「メシアの福音」「御国の福音」とも言い換えることができます。
それが測り知れない神の力となって明らかにされるのだとパウロは述べているのです。
ここでの「器」は「人の霊」のことで、「神を入れる容器」と言えます。
御子イェシュアが御父を入れるいわば「容器」であったように、エクレシア(原文聖書には教会という言葉は無い)も三一の神を入れる容器でもあるのです。
ヘブル語では「ケリー」(כְּלִי)ですが、これは牛の「くびき」をも意味します。
「容器」と「くびき」が同義だとするなら、イェシュアが「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます」(マタイ11:29)と語ったことばのイメージが理解できます。
つまり「わたしのくびきを負う」とは、「あなたがたはわたしを入れる容器となれ」という意味にも解することができるということです。
そしてこのことは、神が人間を創造した目的でもあるのです。
「宝」は神の「測り知れない力」を秘めています。
それが解き放たれるならどんな力が現されるのでしょうか。そのことが7~11節に記されているのです。
ただしそこでの「宝」は「イェシュアのいのち」に言い換えられています。
10節 わたしたちはいつも“死につつあるイエス”をこの身に負っている。
死につつあるイエスをおんぷしている。
ここには見事なほどに、へブル的修辞法によるパラレリズムが使われています。
パウロは一体ここで何を強調しようとしているのでしょうか。
「それ(宝)は、この測り知れない力が神のものであって、私たち(土の器)から出たものではないことが明らかになるためです」が、「イェシュアのいのちが私たちの身に現れる」「イェシュアのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れる」とも言っています。
「土の器」というのは「もろく、壊れやすい」という意味ですが、その土の器の中に「測り知れない」(「ヒュペルボレー」ὑπερβολή)宝が隠されているということをパウロは強調しています。
「ヒュペルボレー」は「極度に、はなはだしく、最高の、最も優れた」という意味で、パウロだけが使っている語彙です(8回)。
「ヒュペルボレー」は「を~超えて」を意味する前置詞「ヒュペル」(ὑπερ)と「石を投げて届く距離」を意味する「ボレー」(βολή)との合成語です。パウロという人は、神の世界を表すのに「絶大な」を意味する「ヒュペル」(ὑπερ)を好んだ人です。
それをもとにパウロは独自の新しい言葉を数々創り出しました。
土の器の中にある「宝」が持つ力は、神からくる「測り知れない、並外れな、絶大な、卓越した、超絶的な」ものです。
それゆえ8節の「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません」ということが経験されたのです。
さらに9節の「迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」となるのです。
「苦しめられる、迫害される」という現実はある。「しかし・・がない」(「アッラ・ウー」ἀλλά οὐ=省略「アッルー」ἀλλ' οὐ)という強意の二重否定がなされています。
つまり、どんなことがあったとしても、「窮することがない」「行き詰まることがない」「見捨てられることがない」「滅びない」ということが強調されているのです。
これはまさに台風の目の中にいるシークレット・プレイスの恵みではないでしょうか。
土の器としての人の霊の中にある宝がそうさせるのです。
私たちのたましいがそうするわけではないのです。私たちのたましいは、イェシュアが「向こう岸へ渡ろう」と言って一緒に舟に乗り込んだけれども、突如、大暴風が起こって、舟が大波をかぶった時の弟子たちの心と同様です。
この時イェシュアが眠っておられたのは、イェシュアが御父の中におられたからです。
「霊の中に生きる」とはイェシュアと同様なことになるのです。これが「霊の中に生きる」祝福であり、至聖所にいることのできるシークレット・プレイスの恵みなのです。