シリーズ「霊の中に生きる」 No.5、人の霊(6)⑦
シリーズ「霊の中に生きる」 No.5、
人の霊(6)⑦
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。
(2) 一時の軽い苦難が、重い永遠の栄光をもたらす
「内なる人」である私たちの霊は御霊によって強められますが、同時に苦難を通しても強められて、私たちの信仰が成長させられ、やがては私たちに「重い永遠の栄光」がもたらされるのです。
「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。」
(箴言27:17)
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『摩擦』
私たちがどのようにして磨かれていくかと言えば、摩擦によってです。
自動車は何で走るのでしょうか。
「それはエンジンに決まっている」と思われるかもしれません。いいえ、どんなにすばらしいエンジンを持った車でも、それだけでは走りません。
車はタイヤと地面との間に起こる摩擦によってはじめて走るのです。
摩擦が起こらなければ自動車は前進もしないし、後退もできません。
また右にも左にも曲がらないのです。
また摩擦が起こらなければブレーキを踏んでも止まることはできません。
「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる」とは真理なのです。
さまざまな摩擦は神がご計画を進める上においても重要であり、真理なのです。神のご計画において摩擦(苦難)のない進展はあり得ないのです。
また私たちの信仰の成長のためにも、苦難は神が備えられた大切なものなのです。
「私たちの一時の軽い苦難」とは「私たちのたましいの苦難」のことです。それがなぜか「一時の軽い苦難」とされます。なぜなら、それ以上のこと、つまり並外れた(卓越した)栄光がもたらされる(=成就する)からです。
(3) 同じ信仰の霊をもっている
パウロの「私たちは落胆しません」(16節)という宣言の根拠は、キリストにある終末的信仰にあります。
これと同じ信仰の霊がなければ、お互いに励まし合い、慰めることはできません。
【新改訳2017】
Ⅱコリント人への手紙4章13~14節
13
「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。
14
主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。
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パウロはコリントの教会の人たちと同じ信仰の霊をもっているので、励まし合うことができることを感謝しています。
その同じ信仰とは「主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ(未来形)、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる(未来形)ことを知っている」という信仰です。
この終末的信仰は「見えるものにではなく、見えないものに目を留める」とも言い換えられています。
「見えないものに目を留める」ことができるのは「人の霊」によってなのです。
それゆえにパウロは「私たちは落胆しない」と言っているのです。私たちはもっと霊を活用すべきなのです。
三一の神は、私たちの霊とともにおられます。