シリーズ「霊の中に生きる」 No.9人の霊(9)⑤
シリーズ「霊の中に生きる」 No.9
人の霊(9)⑤
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。
シリーズ「霊によって生きる」の第九回目です。
今回も「人の霊」について扱います。
今日はその第五回目です。
4. 個別的な私たち
聖書の神は時間と空間を超越した方です。永遠において、神は歴史の中で展開されるご自身のご計画のシナリオを持っておられます。
そう考えるならば、神の前に二人の人しか存在しないことも、私たちを包括的に取り扱うことも可能なのです。
私たちは時間的制約の中に生かされていますから、キリストの事実による包括的な私たちを信仰によってのみ、個別的にそれを自分のものとすることができるのです。
信仰の定義をパウロは次のように述べています。
【新改訳2017】
ローマ人への手紙10章17節
ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。
信仰とは、私たちがキリストについてのことばを聞くことから始まるとしています。
それだけではありません。
信仰とは実に神秘に満ちています。
信仰が始まるためには、自分の口で「主の御名を呼び求める」ことです。
①
【新改訳2017】
ローマ人への手紙10章11~13節
11
聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」
12
ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。
同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。
13
「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。
②
【新改訳2017】
エレミヤ書33章2~3節
2
「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。
3
『''わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう''。』
①のローマ書10章では、救われるために「主の御名を呼び求める」ことを促しています。
②のエレミヤ書33章では、救われるためではなく、理解を超えた大いなることを知るために、またそれを悟ることができるために、「わたしを呼べ」と言っています。
新生児は泣くことで親を呼び求めます。
愛のある親なら次第に、子どもの泣き声がお腹を空かしたものか、どこか痛みや不調を訴える泣き声か、、あるいは不安から泣いている声かを聴き分けるはずです。
同様に、神である主は、自分の名を呼ぶ者に無関心であるはずがありません。
必ずそれに答えてくださるのです。
①のみことばには、「ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになる」とあります。だとすれば、主の名を呼び求めましょう。
長々と祈る必要はありません。
ただ「主の名を呼び求める」だけです。
簡単です。
信仰を要しますが、長々とした祈りは必要ありません。状況を説明する必要もありません。
「わたしを呼べ」とあるのですから、ただ呼び求めることです。
また、神の深遠なみことばの意味を尋ねる時も主の名を呼び求めましょう。
そうするなら、「わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」と約束されているのです。
日本語だと「私は主の御名を呼び求めます」となりますが、これをヘブル語にすると簡潔な歯切れの良い言葉になります。
「アーメン」「ハレルヤ」は良く使われていますが、これらはヘブル語です。
ですから、主を呼び求めるときも、大いに大胆にヘブル語を使いましょう。
歯切れのよい大きな声で呼ぶことで、主が答えてくださいます。
だまされたと思って、主が答えられるかどうかをやってみてください。
語順や形式など無視してやってみることが大切です。
祈りは霊の呼吸なのです。
霊の領域を活性化するのです。
Aa「私は主の名を呼び求めます」のヘブル語は、
「ベシェーム・アドナイ・エクラー」(בְּשֵׁם יהוה אֶקְרָה)
Ab「私たちは主の名を呼び求めます」のヘブル語は
「ベシェーム・アドナイ・ニクラー」(בְּשֵׁם יהוה נִקְרָה)
Ba「私はあなたの御名を呼び求めます」のヘブル語は
「ベシムハー・エクラー」(בְּשִׁמְךָ אֶקְרָה)
Bb「私たちはあなたの御名を呼び求めます」のヘブル語は
「ベシムハー・ニクラー」(בְּשִׁמְךָ נִקְרָה)
祈りは霊の領域の働きです。
私たちの内にある御霊が天におられるキリストに呼びかけ、言葉にならないうめきをもってとりなしてくださっているのです。
そのためには、私たちがことばを口に出す必要があるのです。
イェシュアの語ることばが霊であるといったように、私たちの内にあるキリストの霊も、私たちが口から出すことばによって、霊のことばとなり、それが天のキリストに届き、聞いていただけるのです。