シリーズ「霊の中に生きる」 No.9人の霊(9)②
シリーズ「霊の中に生きる」 No.9
人の霊(9)②
「最初のアダム」と「最後のアダム」(第二の人)
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。
シリーズ「霊によって生きる」の第九回目です。
今回も「人の霊」について扱います。
今日はその第二回目です。
1. 神の前には二人の人間しか存在しないという事実
この世界には多くの人々が存在します。
しかし神の前においては二人の人間しか存在しないのです。
これはどういうことでしょうか。その二人の人間とは、「最初のアダム」と「最後のアダム」(第二の人)です。
「最初のアダム」は神によって造られた最初の人・アダムです。
「最後のアダム」とは神の御子イェシュアです。
この二人の中にすべての人間が括られるのです。私たちが認めようが認めまいが、すべての人はこの二人のうちのどちらかに属しているのです。
もしあなたが人として母の胎から生まれた者であるとするなら、間違いなく「最初のアダム」に括られます。
しかし神の御子イェシュアを信じる人なら、「最後のアダム」に属する人なのです。これは聖書独自の概念で、「包括的な私たち」と言います。
このことを知っておくことがとても重要です。
「包括的」という言葉は聖書の中にありませんが、「キリストとともに」というフレーズによってそのことが表されています。
この表現は使徒パウロが使った表現です。
コロサイ書1章25~26節でパウロは自分の務めを「神のことばを完成する務め」(回復訳)と言っています。
1:25
わたしは、神の言を完成する(告げひろめる)務を、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである。
1:26
その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。
↑口語訳
それは「世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるため」(【新改訳2017】)としています。
「余すことなく伝える」に原語「満たす」という意味の「プレーロー」(πληρόω)が使われています。
事実、彼ほど神の啓示を神から直接受けた使徒はいません。
ですから、もし新約聖書における彼の14の手紙(書簡)が取り除かれるなら大きな損失を招くことになります。
「二人の人」の話に戻ることにしましょう。
【新改訳2017】
ローマ人への手紙5章18~19節
18
こういうわけで、ちょうど一人の人によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。
19
すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。
ここはヘブル的修辞法の同義的パラレリズムで書かれています。
つまり、同じことを別のことばで言い換える修辞法です。
ここでは「一人の人によってすべての人が定められる(=包括される)」という神の事実が記されています。
この事実は神の定めであって、人が勝手に変えることのできないものです。
特に、19節は「罪人とされる」ことがどういうことかが記されています。
人が罪人であるのは、罪を犯すから罪人になるのではありません。罪の度合い(程度)にかかわりなく、「最初のアダム」に属しているなら、人がどう思おうと、それだけですべて罪人とされるということです。
なぜなら、「最初のアダム」は神に対して違反をし、不従順であったからです。
反対に「最後のアダム」に属しているなら、それだけですべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。
なぜなら、「最後のアダム」であるイェシュアが神に対して義の行為をなし従順であったからです。こうした概念を私たちは受けとめる必要があります。
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