シリーズ「霊の中に生きる」 No.18 人の救い④
シリーズ「霊の中に生きる」 No.18
人の救い④
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。
シリーズ「霊の中に生きる」も第18回目
「人の救い」についてまで来ております。
今回はその『人の救い』の第4回目です。
●2023.10.1~8 The 2nd Celebrate Sukkot
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2:21
そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。
2:22
主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
2:23
そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。
2:24
それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。
2:25
人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。
創世記2章21〜25節
創世記2章25節に「人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」とあります。
「恥ずかしい、恥じる」というヘブル語は「ボーシュ」(בּוֹשׁ)で「水源が涸れる」ことを意味するのですが、それが否定されています。
つまり彼らが「恥ずかしいとは思わなかった」とあるのは、彼らに涸れることのない「いのちの源泉」があったことを意味します。
新約時代の初代教会の人々は「いのちの源泉」であるイェシュアを彼らの霊の中にもっていることで、何ら恥じることのない最強の花嫁とされたのです。
しかし、もしこの「いのちの源泉」を失うときに人がどうなってしまうのかは、創世記3章を見ると明らかです。つまり彼らは「自分のために」生きるようになり、「恐れ」が生じることが分かります。
●蛇の言うことを信じたアダムとエバは、神である主の「音」(コール: קוֹל)を聞いただけで「恐れ」て身を隠してしまいます。
それまでの彼らはこの「恐れ」の感情を経験したことがなかったはずです。しかし「善悪の知識の木」から食べてしまった後彼らは、「恐れ」の感情に支配される者となってしまったのです。
すべての人を縛っているのは「恐れ」の感情です。この感情が人の思いを支配し、「身を隠す」という行為を引き起こしたのです。
その恐れとは神に対する畏敬、神を恐れかしこむ「恐れ」ではありません。
その場合の「恐れ」は神から来ますが、そうではない恐れは「死への恐れ」を招きます。
この死への恐れは、脅しによるものであったり、拒絶される恐れであったりします。いずれにしても、神を拒絶する形で現されるようになります。