シリーズ「霊の中に生きる」 No.10人の霊(10)③
シリーズ「霊の中に生きる」 No.10
人の霊(10)③
「エックレーシア」の建立と、
グローサ(異言)について
御霊なるエックレーシア
神に召された者の“臨時の”集会
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。
シリーズ「霊の中に生きる」の第十回目です。
今回も「人の霊」について扱います。
今日はその第3回目です。
【新改訳2017】
ローマ人の手紙8章26~29節
26
同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならない切なるうめきをもって、とりなしてくださるのです。
27
人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。
28
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
29
神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。
それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。
● 神のエックレーシアの建立
「人の霊」の「人」とは、単なる個人を意味しているのではありません。確かに個人も含んではいますが、むしろ集合的・団体的な人なのです。
混乱しないでいただきたいのですが、パウロはこの「人」を、
「キリストと栄光をともに受ける共同相続人
(複数)」 (ローマ8:17)
「神の子どもたち」(同8:19)
「御霊の初穂をいただいている私たち」
(同8.23)
「聖徒たち」(同8:27)
「神を愛する人たち」
「神のご計画にしたがって召された人たち」
(同8.28)
「多くの兄弟たち」
「(神が)あらかじめ知っている人たち」
「あらかじめ定めた人たち」
「義と認めた人たち」(同8:29~30)
「神に選ばれた者たち」(同8:33)
と表現しています。
このように、すべてが複数形です。
私たちは個人ではなく、
包括的、かつ集合的存在なのです。
●これらの複数形は「教会」を構成する人々ですが、個人としての意見ですが、私としては、「教会」を「エックレーシア」という言葉で表現したいと思います。
「教会」という訳語は、他に、「集会」、「会衆」、「召会」、「召衆」などと訳されています。
しかし第一情報である原語はただ一つです。
それは(エクレシアではなく)「エックレーシア」(ἐκκλησία)です。
これも混乱に一役買ってしまうかもしれませんが、「エックレーシア」はキリストをかしらとする「キリストのからだ」を意味します。
あるいは花婿なるキリストの「花嫁」とも言えます。
その「キリストのからだ」を、あるいは「キリストの花嫁」を、
「御子のかたちと同じ姿に」造り変えるために、御霊が人の霊の中においてとりなしの務めをしてくださっているのです。
この御霊によるとりなしは、私たちが異言で祈ることとは関係なく、恵みの事実としてなされているのです。
*注意グローサ(=異言)について
前記のことは
異言で祈ることを抑制しているわけではない。
異言で祈る(語る)このことは自分自身の霊性を高めるためにはこれほど効果のある神からの賜物はない。
しかし、いつまでも『ただ、異言を祈れる(語れる)』程度の霊的レベルにとどまるべきではない。
(パウロがコリント書をコリント、エックレーシアに書き送らねばならなかった当時の様に)
異言を語れる者はいよいよ次のパウロ通してのイェシュアの言葉が証詞するように、異言を解いて預言に至るというもう一段階も二段階も霊性高められた境地を目指さねばなりません。
コリント前書曰く
このようなわけであるから、グローサ(異言)を語る者は、自分でそれを解くことができるように祈りなさい。
グローサ(異言)を釈くには、ガラスのような、透明で純粋な心境に立つことが第一の条件だ。
グローサ(異言)を釈くとは、翻訳ではなく同時通訳のようなもので、高度の直覚判断が必要だ。
頭で考えてもグローサ(異言)は釈けない。
もしわたしがグローサ(異言)をもって祈るなら、わたしの霊は祈るが、知性は実を結ばないからである。
すると、どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう。
1コリント14.13〜14.15
もう一つ付け加えると、『異言』という日本的な訳は適切ではない。
ギリシア語の『グローサ』は『舌』
ヘブル語にての『ラション』は『舌』
本来、原語からすると『異言』と紛らわしい訳し方をせずにそのまま『グローサ(舌)』と訳した方が
『この神の霊的賜物の初歩』を適切に表現していると言えるだろう。
霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。
務は種々あるが、主は同じである。
働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。
各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。
1コリント書12.4〜12.7
これが『御霊なるエックレーシア』です。😇