日本の残されし民より未来の全人類(選ばれし民)へ 。シリーズ『出エジプト記』に読む神のご計画 祭司の王国、聖なる国民シナイにおける双務的契約(1) - ②
日本の残されし民より未来の全人類
(選ばれし民)へ 。
シリーズ『出エジプト記』に読む神のご計画
祭司の王国、聖なる国民
『“神に召された一人の偉大な指導者”が誕生すると、奴隷状況にあった一つの民族が解放されて、神の使命に生きる偉大な民族と変わりゆきます。その最初の選びがイスラエル民族にありました』。
今回は『16. シナイにおける双務的契約(1)の②』について学んでいきます。
1. 主の契約の提示
シナイ山の手前で、神がイスラエルの民と結ぼうとされる契約は、これまでのノアやアブラハム、イサク、ヤコブに対してなされた一方的な契約とは異なり、合意に基づく双務的な契約です。
神がモーセに語った契約は以下のものでした。
【新改訳改訂第3版】19章4~6節
4
あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。
5
今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。
全世界はわたしのものであるから。
6
あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。
主の契約の内容の前提として、まず主はこれまでご自身がイスラエルに対してなされた二つの恩寵を確認させようとしています。
ひとつはエジプトにしたこと。
そしてもうひとつは荒野の旅をしてここシナイにまで連れてきたことです。
後者の旅路の恩寵について、「あなたがたを鷲の翼に載せ」と表現しています。
『鷲の翼=祭司』
申命記32章11節には「鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように」(新共同訳)とあります。
鷲の雛が成長して飛べるころとなると、親鷲は山のがけにかけられた巣の中にいる子鷲の上を舞って誘い出し、その子鷲が疲れてくると、親鷲が背に乗せ巣に戻るというところから、神の民に対するねんごろな守りを表わす比喩として用いられています。
ただし、申命記32章の場合の「鷲」は単数形ですが、出エジプト記19章の「鷲」は原文では複数形「鷲たちの翼」となっているところから、ヘブライ文学博士の手島佑郎氏は「神は無数の強力な天使を遣わしてかれらを保護したのであろう」と説明しています。
(混迷を越えるプロジェクト「出エジプト記」、ぎょうせい出版、182頁)
つまり、本来、両足で獲物をつかんで運ぶ鷲が、翼の上に載せて運ぶということは、荒野での旅路を最も安全な方法で保護したのだと説明しています。
しかし、この「鷲の翼」で祭司のことを指しているという見方もあります。
なぜなら、「鷲の翼に載せ」とは、比喩的な表現で、祭司たちの働きによってという意味です。
事実、イスラエルの民たちは祭司であるモーセとアロンの指導の下にエジプトから脱出し、シナイ山の麓までやって来たからです。
『主との双務契約』
主の契約はまずこれまでのご自身のイスラエルに対しての恩寵を思い起こさせて、もし、主の声に聞き従い、契約の内容を守るならば、
イスラエル民族は、
(1) 「主の宝」(「セグーラー」סְגֻלָּה)となる
(2) 「祭司の王国」(「マムレヘット・コーハニーム」מַמְלֶכֶת כֹּהֲנִים)となる
(3) 「聖なる国民」(「ゴーイ・カードーシュ」גוֹי קָדוֹשׁ)となる
そのような民に「なれ」ではなく、「なる」と言われたのです。
この点がとても重要な点です。
ただし、それは、主の声に聞き従い、契約を守るならばという預言的なものです。
つまり、その条件が満たされるならば、主が言われるような民と「なる」(「なっていく」)ということです。
いかにして「なる』のかと言えば、神がそのように「する」という約束が込められているのです。
「いのちの木」にあずかっていないイスラエルの民に、神が契約を要求することはあり得ません。
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