自分史
埼玉県さいたま市1995年、どこにでもあるような温かい家庭に次女として誕生した。1つ上に年子の姉がいて、いつも一緒だった。40平米そこらの小さなアパートで、両親にたっぷり愛情をもらって育った。
猪突猛進のチャレンジャータイプ
両親によると、記憶にはない頃から、やると決めたら突き進む子どもだったらしい。最も古い記憶は、「私にできないことなんてない」と何かに挑戦している自分。年少さんで小学生が登るようなジャングルジムの頂点に立ち上がったり、ブランコも高く漕いで遠くまで飛び降りたり。自分よりかなり年上のお姉ちゃんがやっている鉄棒をみて、できるまで練習していた。
自分の可能性はどこまでも無限にあって、努力すればできないものなんて何もないと心から思っていたし、自分で決めたら絶対できるようになるまでやる!!そんな、まさに怖いもの知らずな子供だった。(そして、父はその練習にいつまでも付き合ってくれるような父だった)
# 幼少期:「一つ上の友達に受け入れてもらうには?」
姉の友達と遊ぶことが多かった。「同じように見られるように頑張らねば」そんな想いから、年下に見られないようになんでも頑張っていたと思う。自分なりに頑張ったけれど、認めてもらえないことも多かった。
「はないちもんめ」では基本的に残り者だった。(あのときの世界の外側に取り残されたような、疎外感を思い出すと、ぞっとする。)できることは年上のお姉さんたちと同じくらいなのに、同じにみられない。頑張っても頑張っても仲に入れてもらえない孤独感を感じていた記憶がある。
傷つきやすく、世間体を気にする母
母親は気を遣いすぎる性格だったから、姉を含め、藤原家の選択はなんでも一番最後だった。行きたい場所、好きなおもちゃ選び、座る場所、滑り台の並び順、外の場で自分の意思が通ることがなかった(というか、発言させてもらえなかった)。
本当はめちゃくちゃ興味あるのに「これがほしい」「あれやりたい」って思ったことを飲み込みまくっていた記憶がある。本当の自分のWANT TOを出さなくなったのは、ここら辺から始まっているように思う。
# 小学時代(家)「家族の安心安全な場所をつくるには?」
小学校に上がる頃、祖父母の家を建て替え、2世帯住宅に引っ越した。ここから新たな窮屈日々の始まりだった。おじいちゃんのことが誇らしくて、嫌いだった。記憶にいる祖父は織田信長のような人だった。誰も、祖父に逆らえなかった。左官業を起業し成功させて社長である祖父は、皆を惹きつけるカリスマ性と、力でねじ伏せる支配力を持っていた。
おばあちゃんは、祖父に2回捨てられている(祖父が女を連れて逃げたらしい)。母は、夜勤するおばあちゃんの元で、虚しくて寂しい思いを抱えながら育ったらしい。2人は、祖父に愛されたいと願っていた。
父は祖父に恩がある。幼かった頃、会社を潰してしまって路頭に迷う父を助けた。祖父の会社の社員として、義息子として、祖父に尽くさなければと思っていたと思う。娘の引っ込み思案な姉は、そんな祖父を恐がっていた。
家も車も、毎週末の外食も、家族を経済的に支配する祖父。みんな祖父の顔色を気にするから、私はおじいちゃんっ子に徹した。祖父に気に入られる「いい子」を演じることで、家族の均衡を保とうと必死だった。おじいちゃんが喜ぶことをしたし、望んでいるだろう言葉を発した。我が家の安心安全を守ろうと、緊張感漂う日々だった。
# 小学時代(学校)「正しくあるには?」
勉強、運動、書道、英語、工作、作文、音楽、やってみたら、なんでもできた。全部の賞を総なめにし、あらゆる面で「お手本」のような存在であったと思う。できることも多かったし、大人の期待を捉えることが得意だったので、成績はほぼオール5だった。
先生が何を言いたいのか、どんなことを求めてるのかわかったから、感想を聞かれても、心から思っていないことが、ぽんぽん出てきた。思っても感じてなんかいない、思考で埋め尽くされた言葉が。それが私の生きる術だった。
「間違っていい」って言って欲しかった
誰かの正解を生きる小学校生活は、つまらなかった。時計をみても全然針は進んでいなかったし、寝てもまだ1日しか過ぎない。「人生って長いな、人生ってこんなにも退屈なんだな」とずっと感じていた。
今思うと、自分で選び取って、ちゃんと間違えることができなかったことが自分の弱さを作っているように思う。いつも私は正解を出さなくちゃいけなかった。クラスの中でも、なぜか副担任の先生みたいだった。席替えも、なぜか私だけさせてもらえなかった時もある。(確か学習障害をもった男の子の特別担当だった)
本来持っているADHD気質を抑え込みながら、周囲の期待に応えようと肩に力が入っていた。隣で大声だしてあーだこーだ言いたいこと言っている子が、好き放題言ってるあの子達が、心底羨ましかった。
あるとき、担任の先生の問いの答えがわからなくて、絶対に間違っていることを回答したことがある。なのに先生が、私が言ったことを正解にした。
絶対に間違っていたのに、正解にした。「私は間違ってはいけない」と強く認識した瞬間だった。藤原さんも完璧じゃないよ、間違ってもいいよ、言ってほしかったんだと思う。
アル中の祖母の通報係
小学校4年生くらいのとき、家でもまた大きな変化があった。祖父が、突然家を出て行った(また女をつくって逃げたらしい)。そこから、家は急に貧乏になった。おばあちゃんのメンタルもどんどん崩れていって、アルコール漬けになった。学校から帰宅して、アル中のおばあちゃんか、ご飯を用意してくれている優しいおばあちゃんか、確認するのは私の役目だった。仕事中の母へ通報係をしていた。
毎日、夜9時には寝かせられた。姉と私が2階へ上がると飲んでしまったおばあちゃんにお母さんが怒鳴る。お父さんが2人に寄り添う。そんなお父さんの人生は楽しいのだろうか?おばあちゃんは毎日家事頑張っているのに、怒られて可哀想…そんな気持ちで寝ていた記憶がある。
小学生時代の唯一の楽しみがバスケで感じた”孤独”
唯一、バスケしている時間だけが、間違ってもいい、自由な時間だった。バスケ一家だったので、小学校1年生の時からずっと続けていた。私以外の女子全員が金管バンドに入っていたけれど、私はバスケが大好きだったから入らなかった(だから、男子と下校することが多かった)。
ミニバスでも、なぜか、同級生は1人だけだった。入ってはいなくなって、また期待してはいなくなった。親が送り迎えできないから、とか、コーチが強烈だったから、とか、やめていった理由はさまざまだったと思う。途中で同級生の誰かには期待しなくなって、最後はキャプテンとして1匹狼なチームだった。「どうせ誰も助けてくれない。最後は自分でやるしかないのだ」という感覚はここで培ったように思う。
休む理由が欲しかった
そんなこんなで、大変な小学生時代だった。(ちなみに、小学校時代はこれが当たり前だと思っていたので全くネガティブに過ごしていたわけではない。むしろ恵まれている方だと、とにかく必死だった)
よく扁桃腺を腫らして熱を出した。「休んでいい」って言われているみたいで、とても安心した。熱を出している時だけが、脳みそと肩の力を抜いて、気を張らずに生きていていい瞬間だった気がする。
小学校生活でポジティブだった記憶
思い出すと、つらかった記憶ばかりが蘇る小学校生活の中で、心から楽しんだのは、チームの戦略を立てることだった。練習の様子などなどを見ながら、誰がいつ走るか?バトンリレーのコツなどをクラスに伝えながら組み合わせを考えるのが好きだった。「どうしたら勝てるか?」の組み合わせを考える時間が楽しかった。
6年生のバスケット大会もいい思い出。学校の代表を決めるクラス戦。バスケでは「あの選手は中学校どこへ越境するのか?」と注目されるくらいには上手だったので、素人相手のクラス代表戦は、ピンチになったら1人で独走すれば絶対勝てるはずだった。だけど、パスをしてチームみんなで勝ちたい!って気持ちが強くて、チームバスケに徹した。
最後は負けてしまったけれど、記憶に残る自分らしくいられた時間、いい思い出の1つだ。チーム戦略を立てるのがすごく好きで、楽しかった。
# 中学時代 「自分の中の正しさと折り合いをつけるには?」
中学校生活は、今までのいい子ちゃんの自分を脱ぎ捨てられる気がして、ドキドキしたけれど、楽しみだった。入学初日、「東小の藤原さんは5組だって」というどこから来たかしらない人たちが、休み時間に私を観に来た。トイレや廊下で声をかけられて、握手を求められたこともあった。(よくわからないが、ボスと思われていたようだ)
中学に入って初めてのクラスの自己紹介掲示物のコメント欄に「いじめは嫌いです」って書いた。(今思うと、期待されるのが嫌だったのか)
正論を振りかざす私に起きた、菌まわし事件
よく覚えているのは、体育のドッチボールでの記憶。いわゆるカースト上位みたいな女の子たちが仕組んだ不公平なチーム分け、ゲームではみんなにボールを回さずに自分たちだけで楽しんでいるのが許せなくて、異議を唱えた。
言うべきかどうか迷いながら、ボールが自分に回ってきたタイミングで「今しかない」と思って伝えた。扁桃体が発火してむかむかぽかぽかしている感覚を、今でも思い出せる。
そんなふうに思いっきり正論をふりかざして、嫌われた。その後、菌まわしをされた。「菌」扱いされた事実に涙が止まらなかった。しばらく誰も話を聞いてくれなかった。それでも、自分の正しさを曲げることはできなかった。今も、そういう自分は嫌いじゃない。
#中学時代 :「誰かのできないを、できるにするには?」
中学でも、クラスでは仮面をかぶって、期待されるレッテルの通りに演じて生きていた。一方でバスケ部では、違う自分を出すことができた。「県大会には絶対行けない」と言われていたチームを、みんなで力を合わせて県大会に導いた経験は、今でも家族で話題に出るくらい、印象深い思い出。
未経験者が大半のメンバーが、「どうしたら、バスケを好きになるか」
「できないからできるようになるか」を考える時間が好きだった。チームメイト一人ひとりと対話をして、それぞれの「やりたいバスケ」を形にしていく時間が楽しかった。みんなも楽しそうだった。
そこには姉を含めて先輩もいたし、後輩も同期もいた。みんなで対話できるフラットなチーム。戦っているうちに、あれ?私たち意外と強いんじゃない?って嬉しくなって、みんなが「勝ち」にこだわり始めた。うん、いいチームだったなあ。
#高校時代 :「強いチームのつくり方とは?」
高校は、全国レベルのバスケチームかつ公立校という理由で、県立浦和西高校に進学した。学校自体はめずらしく制服も校則のない大学みたいな自由な学校だったが、女バスは別物。「恋愛禁止」「派閥禁止」「実力主義」 を原則として、様々なルールがあった。(ジャージの色はもちろん、開けていいチャック位置まで決まっていた)
高校生活は、バスケ一色だった。(朝練、ジャージで授業に出て2限目終わりに早弁、昼休みはシューティングをしてまた授業、終わったら夜までランと筋トレ、美味しくないプロテインも強くなるためだと飲んでいた。)
小1から続けてきて、ある程度自信があったバスケだったが、万年Bチームだった。「この人たちには、絶対に勝てない」、そういう領域の人たちだった。頑張って、Aチームに行けなさそうなBチームの人から、Aチームの練習にたまに入れてもらえるBチームの人材くらいにはなったけれど、レギュラーには全く慣れそうもなかった。
そして同時に、先輩たちがつくるチームが好きじゃなかった。そして、なんとかく心の底では勝ちきれないチームだなって思っていた。(なんというか、中途半端なチームだった。繋がっていなかった)
強いチームってなんだろう?勝ち切れるチームってなんだろう?そんなことを悶々と考えていたと思う。
また正論を振りかざしてやらかす
やっと自分の代になったと思ったら、はじめの合宿で前十字靭帯を切る大怪我をした。現役での選手生命を絶たれ、選手として背中を見せられない中で、副部長としての自分の役割とは何か?勝てるチームってどんなチームなのか?みんなはどんなチームでありたいのか?それ以前に、私もみんなも、人生の時間を使ってなぜバスケ部にいるのか?そんなことをぐるぐる考えていた。
自分にできることを模索し続けた1年間は、大失敗だった。やることなすこと、全てうまくいかなかった。(考えすぎて、うまくいかなくて、ストレスを溜めまくり、顔中ニキビだらけになった1年。)人生の時間かけてここにいるんだから、本音でぶつかってみんなで頑張ろうよ!!!思ってることあるならみんな伝えようよ!!!って言い続けていた。話し合う度、多分正論を振りかざしてしまっていたと思う。(「ふじわらいおん」があだ名でよくも悪くも、ずっと叫んでいた。)
同期は助けてくれたけれど、後輩はわたしのこと大っ嫌いだったんじゃないかな
#大学受験 :「試験日までに、受かる私でいるには?」
全く勉強をしなかった高校2年間のつけが回って、受験のスタートは本当にまずかった(be動詞もよくわからなかった。泣)相変わらずお金がなかったので、塾は最低限。試験日から逆算すると生きている時間はずっと勉強しないとまずいと察し、移動中もトイレでもお風呂でも勉強した。
受験までに何をやっていたらいいか調査して、赤本やら参考書やらを絞り込んでその計画をたててやっては潰していく、それがめちゃくちゃ楽しかった。(トイレの単語集も週1回ペースで更新するのが好きだった)
模試の判定はずっとD以下だったけれど、「この私がMARCH以下に行くわけがない」って思ってやったら最後の1ヶ月で伸びた。結果、日本女子大学人間社会学部現代社会学科に受かった。(あの状況から考えると、まあよくやったと思う。)未来のことを考えて、ざっくり計画する時間が好きでわくわくするのはこの頃からだなあ。
#大学時代 :「私のやりたいことってなんだろう?」
高校時代の先輩の影響をもろに受けて、スキューバダイビングサークルに入った。ここから私の人生がはじまることになる。
サークルには、今まで出会ったことない人種の人たちがたくさん在籍していた。
それまで、「人生には正解っぽいものがある」と本気で思い込んでいた私は、めちゃくちゃ衝撃を受けた。逃げの休学とか、かっこつけた選択というよりは、みな自分の内側にあるものを信じて、時間を使っているように見えた。
別に卒業できれば、授業評価Sなんてとらなくてよくて、何かに勝たなきゃいけないこともない。これからの人生、「何のために、どんなことに時間を使うのか」は自分で選ぶことができるんだと知った。それがすごく嬉しくて、とにかく手当たり次第、やってみたい思うことにチャレンジしまくった。
それまでバスケと答えのある勉強しかしてこなかった私にとって、学校の勉強もアルバイトも飲み会もインターンも、初めていく土地もそこにいる人との出会いも全部、楽しくて楽しくて仕方なかった。
アルバイトもインターンも複数経験した。「こんな楽しいのに、お金までもらっていいの?!そのお金も、自分で自由に使っていいの!?最高なの!?」って思いながら。笑
働くってめちゃくちゃ楽しい!!友達の輪もこんなに広がって最高!え、人生ってめちゃくちゃ楽しいじゃない!!ずっと、そんな気持ちだったと思う。
自己愛が満たされていない状態で利他を実行すると消耗戦になる。
年に何度かある離島での数週間のダイビング合宿は「何もしないをする」ことの心地よさを知る時間だった。目的がないといけないと思い込んでいた私が、何かを手放していいと思えるようになったのは、ものすごい価値だったと、今思う。
何の目的もなく最高な風景の島生活の朝、同期に「そんなふうに考えるの、可哀想だよ」って言われたこと、言ってもらえたことがある。
要約すると、「みんなの幸せばっかり考えて、自分が枯渇してんじゃん。今悩んだって無駄なことに脳みそ使ってあーだこーだ言ってるの、可哀想だね。」って感じのこと。
はっとした。自分自身が満たされていない状態で、相手の心配しているの、ずっとやってきたかも。自分の声に耳を傾けるの、わすれてたかも。これを言ってくれた同期に、今も感謝している。
「頑張る」以外の方法が見つからず、メンタルをやってしまう
#大学職員時代 :「学生の可能性を広げる仕組みつくりとは?」
「大学生活の中で自分の可能性に気が付くきっかけをつくりたい」「その先の日本の就活市場を変えたい」そんな想いで都内の私立大学へ入社。
広報支援から教務、行事運営、キャリア・就職支援、卒業まで送り出すCA(キャンパスアドバイザー)という職に就き、学生支援に邁進した。学生支援は、思っていた以上に大変で、かつやりがいに満ちたものだった。
一方、前年踏襲が当たり前の組織に、四苦八苦した。納得できない現実に直面することも多かった。納得できていない方針を学生に伝えるのが、その仕組みの一部になることへの嫌悪感があった。
「自分の力不足だ」と追い込み、全力で仕事に打ち込んだ。決まった方針に対して納得がいかず、上司と真っ向勝負をしたこともある。自分の成果のなかなか上がらない中、自分の正義を貫くための試行錯誤を繰り返した。
結果、心身ともに疲弊し、うつ病と診断された。事実を認められず、自分に、あの上司たちに負けたくなくて、一粒も薬を飲まずに過ごした。
今の旦那に「休め」って何ども言われたけれど、「もう少しだけやらせてほしい」と言い続けた。「頑張る」以外のやり方を知らなかった私は、やり続けた。
そんな時に、妊娠がわかった。ドラマみたいな悪阻で、妊娠に気がついた。
子どもができる状況ではなかったのに、できた。何億分の一の、本当に少ない隙間をかいくぐって、私たちの元にきてくれた。「もう頑張らないで」と休む理由を娘がくれたんだと。旦那と付き合って4-5ヶ月くらいしかたってないし、25歳だし、とか、迷う理由はあったはずだけれど、その時の私は一点の迷いもなく産むことを決めた。
#ママとしての私 :「25歳ママの経験を、キャリアを活かすには?」
娘の誕生は、私の人生観を大きく変えた。これまで私は、「努力」に固執し、常に何かに追われているような感覚だった。燃え尽きるまで走り続けなければならない、マラソンランナーのような。(メンタルモデルは誰がどうみてもニンジンぶら下げて走り続けるライリー。笑)
娘の無償の愛に触れることで、私は初めて「頑張らなくてもいい」ありのままでいいんだ、という安らぎを感じることができた。
※その時の記事:https://note.com/kana000wara/n/n9614f043b755
娘と旦那氏には、人生レベルで感謝している。感謝しても仕切れない、尊敬する愛おしい2人。
※ちなみにストレングスファインダーの1位「運命思考」はここからむくっと意識にあがったのではないかと思っている。
ライフイベント凝縮の、怒涛の3年間
出産と同時期にコロナが蔓延した。それからというもの、3年間で息をつく暇もないくらい、いろんなことがあった。出産、育休中の資格取得、結婚式(2回延期)、仕事復帰、転職、マイホーム購入、選択的別居、都内で引越し、家の貸出、地方拠点づくり計画、新規事業づくり‥
一つひとつあげたらキリがないくらい、怒涛の日々だった。転機となった出来事を2つピックアップすると、1つはコーチとの出会い、2つ目は選択的別居生活。
#コーチとの出会い :「ありのままの自分で生きるには?」
育休中、心の変容にとても興味をもった。元々興味があったコーチング、このタイミングで受けてみようと思い、発信に共感していたコーチに依頼した。8ヶ月伴走してもらい、「これが私の人生だ」と自分を解す大きなきっかけをもらった。
身体感覚で、want toとhave toがわかるようになった。「可能性を信じる私」としてのアイデンティティをもった。オープンに生きている姿が、自分らしいなと思えるようになった。私の本音が聞こえてきて、わくわく、ドギマギしながら勝手に新しい場所にいた。1年かけてゆるゆる続けた社会人コミュニティでみんなの姿を見た時、あー、私が見たい景色が見えたなと思った。
旦那氏の関係性では、大きな矛盾を抱えていた。妻としての私と、仕事人としての私。彼に対して思うことが両立しない。
妻として、仕事での彼の応援すればするほど、彼は家に帰らない。逆に、仕事人としての私は、家族3人の時間、自分を満たす時間を欲していた。
建てたばかりの浦和の家で、「自分はシングルマザー、稼げるバンドマンと暮らしているのだ」と言い聞かせながら遅くまで帰らない旦那を期待して待ちながら生活した。
苦しかった理由は、矛盾もあるが、「あなたは価値がない」というメッセージを受け取っていたからだと思う。
彼はいつも、「自分は大谷翔平だとおもっている」と言っていた。「自分が仕事の時間を使った方が、世の中のためだ。自由に働かせてくれ」と言っていた。
「ふざけんな!!!」という気持ちと「私もそう思う…今の時点では…」という気持ちとあった。スケジュールを見ても、仕事量をみても、彼がものすごく頑張っていることも、いろんな期待を背負っていることも知っていた。私も一社員として、彼が描く未来は最高だと思って人生の時間を使っているのだから、応援しなくては、という気持ちもあった。
私だって、価値がある。私だって、歩みをとめたくない。みんながそれぞれの人生を歩めるように、自分のために、色々なものを頼った。(朝晩のルーティン見直し、夫婦の振り返りと目標設定、毎月の時間割・私時間の構築、親と友達に預けるなど)をした。
でも、彼と過ごす毎日は苦しかった。頭が痛くなって、しんどくて、自信がなくなっていった。ベットで起き上がって、「これは私の人生じゃない」そう思うようになった。
#選択的別居生活 :「私主語で生きるには?」
限界を迎えたころ、兆してくれる友人と出会い、渋谷と代官山の真ん中にある、トトロの奥の森のような部屋に引っ越した。もがいてもがいた結果の、選択的別居が始まった(浦和と渋谷の2拠点生活だった)。
そこはカーテンがなく、都会なのに森の奥にいるような感覚がある、横にながら空が見える部屋だった。今思い出してもそんな生活あったんだろうか?と思うくらい、奇跡みたいな生活だった。
電気製品は、最低限の冷蔵庫と洗濯機だけ。電子レンジも炊飯器もない。毎日、鉄の鍋で米を炊いて、木漏れ日が見える食卓で3人でご飯を食べた。深く、大きく呼吸ができる。やりたいことがもくもく出てくる。朝起きたら、希望と活力で満ちている。
渋谷と下北を自転車で毎日片道20分往復した。朝晩構わず働き、遊び、暮らした。どこにあのエネルギーがあったのだろう?というくらい充実した、きらきらした毎日だった。
この暮らしでは、彼との関係性は良好だった。私が鳥篭に入れられたと思い込んでいたけれど、でも私自身が勝手に鳥篭に入った、そして出れないようにしていただけだった。それに気がつくことができた。
家族として、もう一度やっていけると思い、話し合って浦和の新居を貸しに出し、下北沢に拠点をうつすことを決めた。
ハタチのトビラディレクターとしての私
2022年にOriginal Pointに転職してから、裁量も責任も、仕事の幅も出会える人も広がった。どこへでもいける自由と、それに伴う重圧を感じながら、働いている。
共感する船に乗った私はぐんぐん進んで行った。仕事って、やっぱりめちゃくちゃ楽しいじゃないか。コントロールできることがこんなにあるって最高じゃないか。まさに、自分の才能を使って働けている感覚がある。
大学営業フロントに立つこと、授業や研修で学生に、若手社員に問いをたてていくこと、メンバーとハタチのトビラサービスを企画してつくっていくこと、新卒採用支援で組織の可能性に触れること、全部、私らしいと思えている。
人生は自由で、どうなるかわからない未来がとても楽しい。本当に毎日試練ばっかりで、落ち着く暇がない。今は、小学生時代の何倍も楽しく、自分らしく生きている感覚がある。
これまで私が私らしくあり続けるための人・こと・事業にたくさん出会った。なんとなく、次のステージに行きたがってる自分がいる。(脳みその半分は抜け出している感覚)
そして旦那の関係性との矛盾と、家族の在り方については、課題だらけである!!!(続)