【エッセイ】ラジオを3年続けられた理由
まいど。
ラジオの更新がまもなく再開できそうだ。
「変態国語」と銘打って始めたラジオも3年目。今年の5月で4年目をむかえる。自分としてはもっと良いものを、クオリティの高いものをと満足することなく配信をしてきた。けれど、一度立ち止まってこれまでの道程を振り返ると、結構やってきたんやなって自分を褒めてあげたくなる。
そうだ。これでも平日毎日配信を心がけて続けてきた。
たまに1ヶ月とか数週間とかお休みすることもあったけれど、日々何話そうか考えて、話の筋道を立ててメモしてと、毎日準備して配信してきた。
凝り性の割に飽きやすい自分の性格からすると、よくもまあここまで続けてきたなと思う。すごいやん。
「収益化してるんですか」とか「どれくらい収入あるんですか」とか聞かれるが、そんなものは一切ない。出ていくばかりだ。書籍代とか、ビール代くらい収入があってもいいじゃないかとも思う。正直思う。いや、ほしい。でも、ない。
けれどなんでか続けられてきた。
理由は分からない。
分からないというよりも、これといってピンとくるものがない。
自分のためではある。自分の教材研究とか登壇とかの延長線上にラジオがある。ラジオで考えたことや話したことは、そのまま自分の仕事に還元される。それはある。
聴いてくれているリスナー(うちのラジオでは〈変態さん〉と呼ぶ。タイトルになぞらえて)のおかげというのもある。これはデカい。再生回数が伸びたり、いいねがついたり、フォロワー数が伸びたりすると、素直に嬉しい。お便りやコメントをもらえると、めっちゃ嬉しい。「そんなん、ただの承認欲求やん」と揶揄されるかもしれないが、その通りだ。承認された気分になって、もっと頑張ろうって思う。それもある。
そもそも発信することにやりがいを感じていたり、マイクとかミキサーとかのガジェットを使っている自分に酔っていたりもする。
でもどれもここまで続けてきた理由かと言われるとピンとこない。
そうなんだけど、違う、そうじゃない。
理由なんてひとつに割り切れるものじゃないんだと最近思う。
世の中では「これが理由です」といった具合に、単純明快に理由があらわされることが多々あるけれど、それは外向けにパッケージングされた答えであって、本当の理由じゃないんだなと思えてきた。
人間の内面はもっと複雑でいろいろなものが方々から流れ込んできては複雑に絡み合っている。「どうして」の問いに一言で答えられるほど簡単ではない。
そんなこと今までも頭では理解していたけれど、最近体感として感じられるようになってきたのだ。
これって国語を考えるうえでも同じことではないか。
「これはどういうことでしょう」
『〇〇だからです!』
「正解!」
いやいや。そんな単純なもんちゃうやろう。
もちろん便宜上ということはあるし、焦点化されたものにおいてのみ考えた場合ということもありうる。
でも作中に登場するのは多くは僕らと同じ人間である。書いているのは少なからず人間である。
それではその核心に迫るとき、そこにはたったひとつの正解があるのではない。幾重にも重なり絡み合った、到底ほどけそうにもない塊があるのではないだろうか。
そんな厄介なものを、みんなで対話しあってひとつひとつ検討していく。
全部は無理だと思う。
でもその対話による検討の過程から、世界と向き合ううえで大切なことを学ぶんじゃないかと考えている。
結局、ラジオが続けられた確たる理由には行き当たらなかった。
けれど、続けていく上で出会った大切なものはいくつも見つけることができた。
もうすぐ再開です。
春です。