俺が出た。2/2

おはようさん。
昨日、大学で〈言文一致〉を知ったところまで話したのでその続きからいくこととする。

〈言文一致〉を知ったときの俺は驚きであふれた。俺が、俺だけが長らく悩んでいたとおもっていた話し言葉と書き言葉の不一致の違和感について、もう100年以上も前に考えられていて、しかも文壇の大きなムーブメントとなっていようとは夢にもおもわなんだ。
俺が悩んでいたことは間違いじゃないというか、必然のことやったんやという安堵感が湧いた。ただそれと同時に、俺の中の書き言葉と話し言葉のせめぎ合いは落着を得ることとなる。書き言葉と話し言葉は別物。話し言葉をそのまま文章化するのはやっぱり難しく、標準語ベースの書き言葉を整えていったほうがええのやという話になった。むろん俺の中で。

だから一人称も「俺」じゃなく「私」、でも「私」ってちょっとキャラじゃない気がして、もうちょっと童貞感のある「僕」をチョイスした。

それからというものずっと「僕」の文章を書いてきた。
自分では使わない言葉。声に出すと妙に白々しくてこそばい言葉。
それでもやっぱり、頭の片隅では、これでええんやろか、大阪弁を、というか自分の言葉で表現できんもんやろかと逡巡しつづけた。
やったらええんやけどね。そんなもん。どんどん書いていって、試行錯誤していったらええんやけどね。お金無駄にするわけでもなし、誰に迷惑かけるでもなし。
でも、その一歩が意外に大きく感じられて、踏み出せないうちに、もう一人の「僕」がどんどん肥え太っていった。

コロナの季節から書いているモーニングノート『はじまり』では、日々短いエッセイのようなものを書いている。そこは俺にとってささやかな文体実験の場でもあるのだが、そこでも「僕」の文章がほとんどであった。「僕」の文章は書き慣れていることもあってか、いささか心地よい。

車で梅田まで出たとき、車で梅田なんか出るもんやないでデルモンテなどと嘯きながら、ヨドバシの立体駐車場の急坂でアクセルばかり踏んでいるとき、カーラジオから町田康の名前が聞こえてきた。
まさかFM802に町田康? んなあほな、NHK 第1やあるまいし! とおもいながらヴォリュームを上げた。聴けば吉岡里帆のラジオ番組に小説家 町田康がゲストとして招かれていた。話は文体の話になっていく。

詞を書くときに気を付けていたことは、歌詞書くときって『歌詞辞典』から言葉を探しがちなんですよ。『歌詞辞典』なんてないんですよ、存在しないんですけど。小説書くときは、なんとなく文学っぽいよねっていう言葉をつい、これから小説書こうっていう人は、普通そんな喋り方せえへんくせに、小説書こう思たら急にそれっぽい(言葉に)なってまうでしょ。エッセイ書こう思たら急にエッセイ風みたいな、随筆調みたいな、文語になってまうんですよ。(町田康)

UR LIFESTYLE COLLEGE 2024.12.15 OA

ピエール・ブルデューは稲妻に打たれたような出会いなんかないと言っているが、正直稲妻に打たれたような気になった。
まさに自分のことやと思った。
俺の中にも『詩辞典』とか『エッセイ辞典』とかいうのがあって、たいして詩もエッセイも読んだことないくせに、さあ書こかとペンを執ってはどっかの辞典を開いて言葉を探している。
ちょっとかっこよく、それっぽく、ええ感じを探している自分がいる。
出来上がったものは、それなりの顔つきではあるものの、声に出して読んでみたりすると、どこか自分から遠いところにある。

辞典といっても全部自分から出てきた言葉にはちがいない。だからどれも自分の言葉ではある。そのせめぎ合いが難しい。やけど、自分の文体のことやから行きつ戻りつしっかり向き合っていきたい所存。

自分の文体くらい自分で守れよあほんだら

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