3月5日(日)🍥後日5日目
いわゆるところの虫の知らせ、forebodingみたいなことって本当にあるのだなあって思い知らされたんすけど、出所後、まだリズムを掴めてなくて起床時間がまちまちだったりします。が、先ほど不図目が覚めまして、病棟(だと遅くとも5時くらいには自然と起床しててそれ)と同じくらいの時間に目が覚めるもんだなあシャワーでも浴びて朝散歩行こうかなあと思っていたのですが、まもなく電話が架かってきまして、義理の父が亡くなったと。監獄から年賀状は送っていて、返事は貰えなかったけど、出所後に会いに行きたい旨は伝えていたものの、間に合わなかった。自分なんかよりも近い距離で生きる方々、特に報告をしてくれたかたのほうがずっと辛いとはもちろん思うのですが、報告を受けて少し、泣いてしまいました。実は昨日も荷物の搬送(なんの因果か長年使うことになってしまっていて愛猫たちのキャットウォークとしても活躍してくれていた「加藤の棚」が特に物理的に重かった)が終わって夜、独りになったら自分の感情がコントロールできないと申しますか、別に悲しい訳ではない(と思っているだけで本当は悲しいということをきちんと理解できていないかもしれないのは嫌な)のに涙が流れて、なんというかハートがハードピンチだ。
このままだとわりとまじで明白な精神的破滅がやって来るので、いろいろと計画を前倒して前のめりに(もともと飼っていた愛猫たちと一緒にいる資格を喪ってしまって、獄に繋がれているあいだ強烈に心の支えになってくれていた人生で4番目に出会った猫をお迎えすることを以て)わがままを遂行するしかない気がしている。
生まれ故郷でもなく長年住んでた目黒でもないここに来てから、何度か義父の運転する助手席に座ったことがある。はやく孫が見たいと言ってくれたが、叶えることができなかったとうとう。彼は何度も的確にわたくしの弱点を指摘してくれて、お前は周囲へ病的に気を使い過ぎだからあまり気にせず生きろと、彼の言葉を借りれば「ボチボチ」という程度・水準だいじに、ゆっくり生きても大丈夫といった含意だと思うのだけれども、きちんと受け取れなかったやもしれないのだけれども、心から嬉しかった。半身が不随のような状態になっていらっしゃりうまく言葉を聴き取れないことも多かったのが悔しくて、でも本当はもっと言葉を交わしたかったし賜りたかった。
自分が今、この場所に居続けたいと思う決意のような祈りのようなのの半分、少なくとも1/3 くらいは義理の父の存在に由来していました。最期に会えなかったのは一生悔やむのだろうこれを引き受けてどうやって生きていけばよいのだろう。物事を正確に描写できない、どころか自分の大切な事柄すらきちんと記述できない中途半端な言葉を引き受け許してあげなきゃ、それが生きるヒントなのかもしれないと思いかけていた矢先、どうやって祈れば。涙なのか鼻水なのかが止まってくれぬ。合掌。
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