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風景をつくりだすもの

人の案内が多かった春の花盛りも過ぎ、あっという間に冴えわたる新緑の季節が巡ってきた。もはやこの村にいると新緑=茶摘みという図式が成り立ってしまうようになった。思えば都会に住んでいた時は、この季節には〇〇の行事があるとか、この時季には〇〇が採れるとか、そんなことは露程も意識したことがなかった。ただただ目の前の仕事や生活とか、いかに自分を高めるかとか、何が欲しいとかあれが食べたいとか、そんなことばかり考えて過ごしていた。

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慣れない手つきで、無心になって茶葉を摘んでいく。急斜面に立ち続けるのは非常にきつく、容赦なく体力を奪っていく直射日光も体にこたえる。毎年毎年、同じ労働を続けてきた方々のことを考えると、本当に頭が下がる思いでいっぱいになる。この時期の茶畑の景観は息を吞むほどの美しさで、密かな写真映えスポットでもあるのだが、こういった景観は決して自然発生したものではない、ということを考える人が果たしてどれくらいいるのだろう。

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「どんな美しい景色にも必ず人の手が入っている」という言葉を聞いたことがある。「人間が立ち入らない、手つかずの状態こそが自然の美しさ」だと思っていた今までの自分。しかし、この茶畑の景観を見るたびに、今までの認識は100%正しいものではないと感じる。村の奥地へ行けば手つかずの自然は溢れているし、凄まじいエネルギーを感じることもある。しかし、美しいというよりは、どことなく恐怖感を感じるのもまた事実なのだ。

東日本大震災を機に都会生活を手放し、日本全国放浪生活を続けた先に到達した、この秘境の地。面積の9割が山林であり、控えめに言って「なにもない」のが事実。離島にすらあることも多い、信号さえも無いのだ。それでも、自分の視点を変えることで、ここには目に見えるもの・見えないものを含めて、宝物がたくさん落ちていることに気付きはじめている私がいた。何よりも日々「生きている」という、確かな手触りがあった。

夏になれば、大学生のインターンシップの受け入れが始まる。

暑い夏になりそうな予感がしていた。

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