北海道への逃亡者 源義経
松前との関わりが!?
源義経といえば奇抜な作戦で平家との戦を勝利に導いた功労者で、その後兄の源頼朝に追われ自害した平安時代の武将である。そんな義経には様々な伝説が残っていたのだ。その伝説の中には、北海道の最南端・松前の地名も出てきていたのである!
実は生きてたって…マジ?
そもそも、義経は史実では、奥州平泉で死んだとされる。しかし、北海道には義経北行伝説という義経が実は生きていて北海道に逃げてきたという伝説があるのだ。全道各地に義経に関する石碑や伝説が点在していて、松前には8つの伝説が存在している。例えば、松前町にある光善寺という寺には、自然石に義経自らが「義経山」と矢じりで彫ったと言われている石がある。
松前に存在する様々な伝説を調査する中で、本当に松前に来ていたのか疑問に思った私は、様々な史料を元に、義経と松前の関連を明らかにする調査をしてみた。
そもそも、義経は本当に岩手県の平泉で死んだのか。『吾妻鏡』など当時の史料や関連する内容をもとに義経非死亡説を検討してみた。
かつての保存技術で生首を40日もきれいに保存しておくのは厳しい?とすると、送られた首が別人の可能性もあるかもしれない。
伝説の多くが伝わったのは近世とされているので、和人との交流の中で広まったのかもしれない。
義経の人物像が伝説によって悪人だったり善人だったり定まっていない。ということは、現地で作られたからか?
上記の考察をまとめると、『吾妻鏡』に記載された義経の首が、本人かどうかはわからない。しかし、北海道に来た義経のキャラが定まっていないところをみると、近世(江戸時代)になってから出来た伝説という可能性が高いのではないか。
まさかの渡航者
では、義経北行伝説などの伝説は、いったい誰が伝えたり、作ったりしたのだろうか?
私は探究を通じて、次の史料がヒントになるのではないかと思った。
松前に関する最古の記録『新羅之記録』には、何と、義経を匿っていた奥州藤原氏の残党が北海道まで逃げてきていたという記述があるのだ。中世の頃に渡ってきた奥州藤原氏の残党が松前辺りで生活していたことになる。
だから、奥州藤原氏の残党が義経に関する伝承を伝えたというのも考えられるかもしれない。もしくは、近世になって誕生した伝説も「義経」という言葉を知っていた、当時の松前人にとっては親しみやすく、すぐ馴染んだのではないか。
伝説はどこから
ただ、奥州藤原氏の残党が伝えたとされる伝説は、今回の調査では確認することができなかった。
改めて今回の調査をまとめてみる。
義経は史実のとおり平泉で死んでいると考えられる。
奥州藤原氏の残党が、松前辺りに渡ってきたという記録がある。
もし奥州藤原氏の残党が「義経」という言葉を、道南の人々に伝えていたとしたら、近世に広まった「義経北行伝説」も、違和感なく馴染んだのではないか。
今回の調査では義経の伝説は創作された可能性が高いという結論になった。松前に残っている伝説は、義経が阿弥陀仏にお祈りして、海が収まったという話や、義経が仏像を寺に納めたという話などがある。こうした話を読むと、義経のことが好きだったから残っているといえるのかもしれない。
皆さんの近くにも義経が北海道に渡ってきたという話が存在している可能性がある。面白い話があれば、ぜひ教えてほしい。