8月31日の夕方に
義務教育過程や高校生の方にとって1年の中で
最も存在して欲しくない日と言っても過言ではない日
それが8月31日である。
(既に夏休みが終わったという方は別として)
長い夏休みとは言わば「束縛からの解放」である。
面白くもない「弄り」を作り笑顔で切り抜けたり「出来ない」と分かっていながらやらなければならない苦手科目に悩み置き去りにされたり自身の存在を赤の他人に否定され家に帰ればやるべき事をせねばならない。
そうした学校生活特有の「束縛」から1ヶ月も離れられるならばあんな馬鹿げた環境に戻りたくない、辛い思いをするならば死んだ方がマシだと考えるのも無理はない。
「じゃあ逃げれば良いではないか」という大人もいるかもしれないが親がなかなか理解してくれないだとか内申やら成績やらに響いてネガティブな評価を下されて人生に多大な損害が出たらどうするんだという批判も出ている事を考えると「逃げればいい」とは軽々しく言えない。
むしろ痛みや鬱々とした感情を抱えた人間に対して何の安泰のない暗闇を示して「逃げろ」と言い放ったり「寄り添ってるフリをした人間」にとって都合の良い答えや解決策を求める事そのものが酷なのではないか。
私は過去にいじめを受けた経験があるのだが辛さを訴える度に周りの大人は口々に「関わらなければいい」「逃げろ」と言い、私が少しでも痛めつけられた連中に抗おうものなら「何かをしたから」という理由で見捨てられ酷い時には「上から目線だ」と非難された。
この時正直に私が感じたのは、排除される者はただじっと自己に対する存在否定に耐え続け「この学校は良い学校だと近辺から評価されている」という自己満オナニーを聞かされ続けるしかないという一種の絶望感であった。
私のような立場の者は学校から見て「死んでいる」も同然なのである。
なぜなら楽しい「はず」の学校に適応出来なかったり優しい「はず」のクラスメイトから拒絶されるのは彼らが学校の中で「生きていない」、言わば「人権を持っていない」状態だからだ。
もっと言うと丁寧に教えているにも関わらず勉強についていけないというのは単なる怠け者・無能の戯言なのだ。
夏休みという勉強や人間関係の悲壮感や束縛から切り離される機会によって自分が「生きている」1人の人間なのだとようやく実感した頃に8月31日がやってくる。彼らが9月に「死んでいる」という現実を突きつけられやがて「本当の死」へと突き進んでしまうのは定められた結果論であると言っても過言ではない。
私が彼らに掛けてあげられる言葉は「諦めよう」しかない。
なぜなら痛めつけてる側は自分が残酷であることに気づく気もないし世間はどんな手段を使ってでも「有能」になれる人間を求めている。
(有能の基準は私のような無能にはよくわからないのでなんとも言えないがそんな気がする)
結局ありきたりな理想論を語ってもアクションを呼びかけても痛めつけてる側はまず見ようともしないし大半の人はまず自分が生き残ることに必死で彼らの叫び声など風の音のようなものだろう。
いたずらに掴めるかどうかわからない「希望」を見せつけるくらいなら最初からそんなものは人生に疲れきった人間が生み出した幻なのだと割り切ってこの世界でひっそりと暮らしひっそりと合法的に消えていくための手段を模索する方が早いのではないかと私は考える。