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ぼくのかんがえたさいきょうのえんげき──studio oowa「えんげきのがっこう」の半年間
2024年秋から半年間、萩原と清水は、横浜にあるコミュニティスペース「oowa」で、毎月一回、子どもたちとのワークショップを行ってきました。
特別支援学校に通う子ども達とそのきょうだい児らが混在する初めてのワークショップで、トライアルアンドエラーを重ねながら行ってきた「えんげきのがっこう」の半年間について、萩原の視点からまとめます。
(撮影:加藤甫)
わたしは演劇のほかにフリーライターとしても仕事をしていて、カメラマンの加藤甫さんと出会ったのは、2017年とかそれくらいのフリーライターとしての現場でのこと。その後、加藤さんとはひとつのチームのようにして何回も仕事をしているから、普段やたらには人と打ち解けない自分としては珍しく、かなり仲良くしているひとりです。そんな加藤さんが、自身のスタジオ兼コミュニティスペースoowaを開設したということで遊びに行ったのが昨年の晩春くらいのタイミング。平日の15時ごろだったので、子どもたちが学校から帰る時間だったが、通りかかった子どもたちがスタジオの中を覗いていったり、あいさつもそこそこに、どたどたと入り込んできたりしていました。それは「サードプレイス」という言葉で表現できるような気もするけれども、それよりももっと「たまり場」とかそういう言葉で表したほうがいいような雰囲気でした。「とてもいい場所だね」という話をしていたら、話の流れで子どもたちと演劇の学校をすることになりました。その経緯は覚えていません。
加藤さんはもちろん、わたしがどういう芸風の人間かを知っています。つまり、日本国憲法や原発事故やらをモチーフにするわたしの作品は「子ども向け」のかけらもないし、一抹の愛想もないことを知っています。わかりにくいといわれる小劇場演劇の中で、わかりにくさの極北であり、とっつきにくさの権化のような作品を創作しているのです。そんな人間にあえて、子ども向けのワークショップをやらせようとはどういう了見でしょうか? きっと、お互いにかなり無理をすることになるはずです。とはいえ、加藤さんと無理するならば、絶対に楽しい。
というわけで、清水穂奈美を誘って、えんげきのがっこうが始まりました。そもそも子どもとともに行うワークショップの経験も乏しい。はてさてどうしたものか……と思案しながら、8月からプレ企画として影絵あそびをすることになりました。
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そもそもoowaは、自らもダウン症の長男とともに暮らす加藤さんが、ダウン症の子どもやその保護者たちのスペースをつくりたいという意図のもとに2022年から始めた施設です。そこには、ダウン症などの障害を持っている子どもたちと、そのきょうだい児たちが主にやってくる。わたしは障害児の専門家でもなければ、これまでダウン症の子どもとまともに接したことすらありません。当然、ワークショップの前はかなり緊張していました。
でもそれは杞憂だったと思うのが、彼らが特別に手がかかるのではなく、子どもはすべからく手がかかることでした。障害を持っていようがいなかろうが、子どもであるという時点でわたしにとっては「普通」ではなく、コミュニケーションの困難さを抱えています。その意味で、障害児も健常児も何も変わらないのです。全員に等しく手をこまねいているため、今やもう、誰が障害児なのかそうではないのか、正直よくわからなくなってしまいました。
そうやって彼らの生態を観察しながら気づいたのが、彼らは、すでに「演劇を持っている」ことでした。彼らの中には、はちきれんばかりのフィクションが詰まっている。だから、車のおもちゃは等身大の車となり、ダンボールでつくられた空間が、「本当に」家になってしまう。もう演劇を持っている彼らに対して、たとえばわたしが台本や振り付けを持ってきて、プアな演劇をやらせる必要はないのです。というか、そんなことに付き合ってくれないでしょう。
「彼らはすでに演劇を持っている」
その発見は、えんげきのがっこうを考えていく上で指針となるものでした。わたしの役割は、他所から演劇なるものを持ってくるのではなく、彼らの中にもうすでにある演劇を出してもらうためのフレームを持ってくること。そのため、9月以降は「おばけになってみよう」「人形の家をつくってみる」「ちんどん屋になる」「おみせやさんごっこをする」といったプログラムを用意し、それを通じて彼らの内なる演劇が外部化していくことを狙いました。実はそれは、「演劇はこの世界中ですでに行われている」というポストドラマ演劇以降における演劇の発想であり、これまでやっていた演劇と、ほとんど変わらない態度であるといえます。
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ただ、そうやっていたら「街歩きのどこが演劇なの?」といわれるように、えんげきのがっこうもまた、どんどんと「演劇ワークショップ」ではなくなっていきました。
たとえば「さるかに合戦」を上演するためにセリフを覚えたり、振り付けを与えたり、歌を歌ったりしつつ、衣装や小道具をつくる。つまり作品を作ったり、作品の種になるようなものをつくる。そういうのが、子ども向けの演劇ワークショップであるというイメージがあります。そして、練習に取り組んだ成果として「じゃあ発表してみようか」と、簡単なショーイングをして大団円に。子どもたちも演劇の楽しさに触れられるし、保護者もいつもとは異なった我が子の姿に笑ったり泣いたりすることができる。それが自治体主導であれば、その見えやすい成果は、行政官にとっての満足度も高いものとなります。
もちろん、そのようなワークショップを行うことにわたしとしても異存はなく、どんどんとやられるべきでしょう。ただ、わたしには実力が不足しているので、そのようなワークショップを仕切ることはできません。また、個人的に、そのような演劇活動に、あまり興味を持てません。それよりも、彼らが持っているフィクションを肯定することこそをわたしはしたいし、そこに豊穣な価値が眠っているのではないか。わたしが心の底から信じているのはそのような意味での演劇であって、セリフや舞台美術や何やかやで構成された演劇のことではないのです。
その結果、えんげきのがっこうでのわたしの立場は、学童のお兄さんのような形になりました。つまり、何かをやらせる人というよりも、一緒につくったり、作ったもので一緒に遊んでいたりというようなことをしている人。たまに、これはやっぱり演劇じゃないのでは……と、自分でも思います。これではまずいのではないか……と言う気持ちも、正直、なくはありません。
これが、もし行政主導のワークショップであれば、わたしはきっと「さるかに合戦」を選んでいたことでしょう。きっと、子どもたちに対して「このときのさるの気持ちはどうだったかな?」と聞いていたかもしれない。
ただ、加藤さんは、oowaに携わるアーティストに失敗することを推奨している、と話します。oowaは、アーティストにとっても、慣れない環境の中でいろいろな失敗を積み重ねる場だ、と。猜疑心の強いわたしは、他の人がそう言っても、決してその言葉を額面通りに受け取ることはありません。多くの人や組織が「失敗を推奨する」と口ではいいつつ、実のところ本質的には失敗してほしくないと思っているのは、意外とバレているものです。ところが、加藤さんは、本当に失敗を気にしない。それは、ここが彼の私設の場所であると同時に、子どもたちの保護者たちも、個人的なつながりから集まってきたことも影響しているでしょう。多分、本気で加藤さんは成功するか失敗するかを気にしていない。
なぜなら、子どもたちにとって「oowaに来ることが、すでに成功である」から。障害を抱えた子どもたちは、その特性から、彼らが子どもたちだけで遊ぶ機会は少なくどうしても親とともに行動することになります。しかし、oowaはその数少ない機会となっている。彼らにとって、oowaで遊んでいるということだけですでに成功であり、えんげきのがっこうが楽しいか否かはあまり重要なことではないのです。
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「何をしていても成功である」そう考えると、ふっと肩の力が抜けてきます。それっぽい体裁を整える必要もないし、変な気を回す必要もありません。
加藤さんはアートプロジェクトの写真を取りまくっているので、彼の手にかかれば、なにか魔法のようなことをしているように錯覚します。でも、そこでは魔法みたいなことなんて全然起こっていなくて、起こっていたのはただカオスでレイジーな現場です。彼らは静かに話を聞くこともないし、飽きたら公園に遊びに行ってしまうし。でも、もちろん、それでいけない理由はありません。
そうして、毎回8人くらいの子どもたちが参加しつつ、えんげきのがっこうは、毎月1回、2時間のプログラムを行いました。多分、彼らには、演劇をやっている実感は全くないでしょう。けれども、彼らがやっていることは、素晴らしい演劇である。ただ、それが作品の形で切り出されることを必要としていないだけです。でも、その演劇は、さるかに合戦を行う以上に、豊かな生を送るために必要なものであると、わたしは思います。
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よく、演劇は、想像力を養うといわれます。セリフを聞くためには、その裏側にある「意味」や「心理」を理解しなければならないし、基本的に見立てによって成り立つ演劇を楽しむためには、想像によって空間を補う必要があります。けれども、未就学児、あるいは特別支援学校に就学後の子どもたちを見ていて、演劇が想像力を育くむというのは、少なくとも、未就学児や障害児らと行った「えんげきのがっこう」では、あまり観測できなかった。月に一回やってくる人間の目から見えない部分は多いけれども、そもそも、想像力というものは、本当に「育める」ものなのでしょうか?
たぶん、わたしがoowaで行っていることは、想像力を育むことではありません。それよりも、彼らがすでに持っている想像力に歯止めをかけず、外に出すことを促しているのではないかと思います。ふつう、生きていると、自分の中にある想像を信じなくなってしまう。自分の中にある共有不可能なものは、くだらないものであり、価値のないもの、恥ずかしいものだと思うようになってしまいます。その想像力が駆動することに歯止めをかけないでいいんだという場を作ること、それが駆動したらこんなにも楽しいんだという成功体験をつくること。「きみがつくっているそのへんなことに乗ったらすごくおもしろい」というメッセージを伝えること。わたしが半年間やっていたのは、そのようなことに尽きるのではないかと思います。おばけだろうが、お店だろうが、そのためのネタは正直なんでもいいのです。
アートサイトの助成は単年度なので、えんげきのがっこうも一区切りがついたのだが、わたしも加藤さんも、これからもやっていきたいなと思っています。
この先について詳細をすり合わせたわけではないから、わたしの勝手な気持ちも含んでいるけれども、わたしはこういう活動がoowaだけで収まらない方が良いなと思っていて、「公演」という形で外部に開くことができればいいなと思います。ただ、きっとそれは「公演」のためにさるかに合戦を演じるのではなく、えんげきのがっこうのそのままが、劇場空間に展開されるようなこと。それは、きっと彼らのためにはならないけど、わたしたちのためになるのではないかと思います。彼らが劇場空間で普段通りの「演劇」をやるだけで、われわれが普段、演劇と呼び名わらしてるものが、いかにプアなコンテンツであるかがわかるだろうし、そんな豊かな演劇を持っている彼らを、劇場空間は排除してきたかもわかると思います(特別支援を必要とするこどもたちの中にはじっと座っていられない者も多く、演劇を見たことすらない子が多いという)。
そんな「公演」に結びつくために、もっと、見ること/見られることの仕掛けを増やしていくことが必要かもしれません。
まだ1歳になったばかりの清水穂奈美の子どもを見ていると、彼がとても見られることを欲しているし、見ることを欲していることがよくわかります。oowaに集う子どもはもう少し上なので、恥ずかしがったりしてなかなか見せてくれないけれども、でも、本心ではやっぱり「見て」ほしいと思っているように感じます。含羞、自己顕示、承認欲求などいろいろなものが取り巻いてしまうからあまりいいイメージではないけど、「見ること」や「見られること」は、人間にとって、根源的な欲望のひとつでしょう。
演劇は、根本的に「見ること」と「見られること」を取り扱ってきた芸術です。だから、彼らとともに公演をつくったら、きっと、「多文化共生」や「インクルージョン」なんていう上滑りしたおためごかしの言葉で語られるものではなく、演劇の原理に基づき、芸術の可能性を拡張するものになるんじゃないかなと思います。