電話演劇の演技について
毎公演ごとに「今回は何をしたいか」ということを話し合いながら作品を作っているのだが、『もしもし、あわいゆくころ』では、俳優が「話す」という行為を立ち上げてみたいと思っている。
俳優は言葉を話すのだから、それは、ひとく当たり前のように聞こえる。けれども、そこには、これまで培ってきた俳優術ではたどり着けないような根本的な変更が要請されているのではないかと思う。
そもそも多くの演劇は、はじめに言葉があり、その言葉を再生するために俳優は訓練を行っている。言葉を再生するために、彼らはたとえば「言葉を発することのモチベーション」や、「言葉を発することによって、どのような効果を生み出したいか」といった、言葉をリアライズするための仕掛けを必要とする。だから、俳優が発する言葉の多くは「伝える」ことに比重が置かれる。
でも、ある俳優が話したこのような話の場合はどうだろうか?
きっと、この父は、少しおもしろい話としてこの話をしているのだろう。けど、この話は何回もされているものであり、父も、この話がもう何度目かの話であることはきっとわかっている。この話をしている時、父は特にこの話を伝えたいわけではないし、それによって、何かを受け取ってほしいわけでもない。モチベーションもなく話しているのである。
わたしたちの会話は、たいていそのようなとりとめのない会話の集積であり、むしろ、何かを伝えたり、何かを意図するための言葉を口にするほうが稀である。
しかし、その一方で、この話を生み出すために、何も必要ではないというわけではない。葦原を歩いていなければ、この話がなされることはあまりにも唐突で、聞き手は「何でいきなりそんな話を??」と、聞き手を戸惑わせることになる。家族という安定した関係であることも重要かもしれない。「それもう何回も聞いたよ」と反応されたら、きっとこの話は最後までたどり着くことなく「ああ、そうか」という言葉とともに、別の話題に切り替わるか、終わるだろう。葦原という場所が触発し、初詣に行くという日常の(しかし、少しだけ特殊な)雰囲気が、この話を引き出してくる。
話すとき、絶対に聞いてほしいわけではないし、伝えたいことも特にない(ただし、伝えたいことがないわけでもない)。しかし、わたしたちは確かに喋ってしまっているし、話すことによって考え方が変わったり、少し気分が上向いたりすることがある(もちろん変わらないこともある)。
2020年から「電話」という装置を使うことによってずっと行ってきたのが「演技」というレベルをぐっと落とすことであった。「電話で喋っている」という状態が既に特殊であり、演劇としての要件を果たしている。そこに強い「伝達」の声を乗せることは不要なのではないか。そう思い、ずっと電話演劇における演技体を更新しようとするものの、これまで、舞台作品を作ってきたために、その手癖を修正していくことはとても難しかった。
けれども、今回、「話す」というこのだらしなく、ぼんやりとした関係性の取り方を行うことによって、より、電話回線でつながることができるのではないかと考えている。「話す」状態の中で、東日本大震災の後に収集された「あわいゆくころ」の言葉が共有される。「話す」という行為が持つ緩やかな輪郭の言葉が、互いの輪郭をほどき、身体にすっと染み渡っていくことができればと思っている。
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