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自分にとって信仰とは関心と愛情を得るための手段だった。

こんばんわ。noteを始めたはいいものの、日々の忙しさと考えの整理をつけることの面倒くささもあってほったらかしにしてましたが、今週一杯は遅いGWのため、部屋の掃除をしたり、観葉植物を眺めながら水をあげたり、ゆっくり本を読んだりして過ごしています。

忙しい=心が亡くなると書きますが、本当にその通りで上記のような丁寧な生活を味わう余裕を失いながら過ごしていたなと感じます。

さて、話は変わりますが昨日NHKの逆転人生で宗教2世の坂根真実さんのストーリーが放送されていましたが(私は家にTVが無いのでまだ観てない)ハートネットTVやNHKで宗教というセンシティブな内容が紹介される時代になったんだなあと。

坂根さんの本は何年か前に読んでいて、この方のバックグラウンドや辿ってこられた人生は知っていたのですが、改めて問題の根の深さというか、善悪の二元論やどこかに責任を求めることだけでは解決することはないものであると思いました。

たまたま本日用事があって、母が家に来たのですが昨日のこの番組を観ていたようで「子どものためだと思っていても、親の考えを押し付けるのは良くないよね」と話していました。

別に今では親のことを恨んでいる気持ちは殆どないし、親と自分の価値観、人生が別物であることは10年以上かけてぶつかりながら話し合ってきて今の関係性を保っているため平気なんですが、改めて親の口から言われると複雑な気持ちになります。

確かに自分は生まれたときから既にその宗教が説いている真理「正解」を刷り込まれて育ってきましたが、モヤモヤした気持ちは持ちつつ他の選択肢を自分で吟味、検証し、実践してこなかった責任は確実にあります。

本当は誰に言われるまでもなく自分自身が一番良く分かっていたのですが、変化を起こすことが怖くて不安や諦めを感じながらもダラダラと自分を表面上でごまかしながら、病気で寝たきりになるまで続けていました。

病気になって、仕事もできなくなって、お金も恋愛も上手くいかなくて、極めつけは今までいつかはこの苦しみが救われると信じていたものが崩れていって、自分にはもう何にも残っていないと思うまで落ちていって初めて自分の頭と意志で‘反抗‘することを試みたわけです。

ある意味遅い反抗期ですが、親に反抗することは親の宗教や組織に反抗することと同義なので、罪の意識とどんな罰が下るのかという恐怖のなかでの行動でしたが、これ以上落ちることはないし、正直死んでもいいやと思っていたくらいなので所謂ヤケクソな精神状況だったなと。まあ、このヤケクソが自分にとっては良かったわけですが。

また、厳密にいうと自分は三世なので、両親も二世という一世の親の姿を見て、また時には価値観を刷り込まれてきた当事者という見方もできます。祖父母は自分の意思で入信し、また信仰前と後の変化を実感として感じられたので続けていたのだと思いますが、子ども、孫と継承されていくなかで信仰の体験というか、「幸せの実感」というようなものが希薄になっていくのかなと感じます。

私にとっての信仰とは教義の正しさや生きるための哲学でもなんでもなくて、ただ信じ、実践することによって喜ぶ両親の姿だったり、周囲から大切にされ関心を持ってもらえるからというだけに過ぎなかった。純粋な信仰ではなかったわけです、もともと。ボロが出るのは時間の問題だったってことかな。

だから自分も正直に気持ちを表現してこなかった責任はあるし、もちろん親の責任の部分も多々あるけれど、そこに囚われて執着している限り自分が幸せになることはないし、苦しみから救われることはないのだなと思ってからはこれからの時間を意味あるものにしていきたいなと色々思索し計画しています。

当面は仕事と、外に仲間を作ることと、あとは収入アップを考えることかな。お金が無くても幸せになれるけど、あったら良いに越したことはないしね。

                              (以上)






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