手放すことの勇気
こんばんわ。早いもので今年も残り3か月ほどになり、時間の経過の早さを感じます。そして今の職場に転職してもうすぐ3年、この業界に来て4年になろうとしています。
今でもこの仕事が自分に合っているとは全く思わないですが、最近は外部との繋がる機会も増えており、少しずつやりがいや新たな気付きを得ることもありました。
そんななか、先日通い始めた自費のカウンセリングの3回目が終了し(50分7000円)今後について書き留めてみたくなりました。
主に宗教の問題についてと、自身の神経症の相談だったんですが、心理士の先生からよくここまで自己分析と洞察ができていますねと評価して頂けました。
所謂サバイバーから支援者の立場になった経緯もレジリエンスの事例として興味深いとのことでした。(そりゃ今までこれだけ苦しんできたんだもの・・)
新しい視点としては、傾向的にもしかしたらASDによる感覚過敏の傾向があるかもとのことでしたが、自分の場合は思いこむとそっちに引っ張られてしまうタイプなので、心理検査や知能検査は行わないことにしました。(ニューロダイバーシティとかHSPとか横文字はもうお腹いっぱいなので)
診断名や障害が付いてそれを自認することで苦しみが楽になったり、自分の新たなアイデンティティになることもあるので、メリットに感じる人はいいのですが、そこに固執することで本来の自分を歪めてしまう惧れもあるんじゃないかなと違和感も感じておりました。
それは今回のタイトルにも繋がってくるんですが、「宗教2世」というワードに関しても同じことが言えるんじゃないかなと。
今だに連日ニュースやSNSでも取り上げられない日はないほどホットなテーマになり、認知されてきた嬉しさ半面、まだまだ正しく報道されていない部分もあるため手放しでは喜べないのです。
ある意味「半ば強制的に環境や思想を植え付けられた可哀そうな当事者」というアイデンティティ(反感を買いそうですが)を得ることによって、批判や攻撃する対象を明確にすることで、自分の現状や行いを正当化し過ぎてしまう懸念も出てくるのではないかと。
そのさらに奥底には「信仰や教義のバイアスを抜きにした無条件の愛情の飢え」だったり、「本来享受できる機会を奪われた悲しみや恨み」といったものがあると想定されますが、いくらそれらを求めても過去に戻ってやり直しができない以上、最終的にはどこかで折り合いや落としどころを定めなくてはならない瞬間があるのだと思います。
また、仏教においては‘執着‘することこそが苦しみの元凶になるため、逃れるためにはそこから離れること、つまりあえて手放してみることが大切だと思うのです。
言葉でいうのは簡単でも実際に行うことは、今までの自分の間違いを認める恐怖や苦しみを伴うものでありますが、死ぬまで報われない苦しみを選ぶのか、または違う苦しみを抱えつつもそれでも新しい自己に気付けるきっかけとしていくのか。同じく苦しむのなら違った世界の姿を見てみたい。
そんな気持ちがふと湧いてきた昨今でした。
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