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死なれちゃったあとで

始めに断っておくけれどタイトルのとおり、
センシティブな内容を含んでいるし
内容が冷たい鉛のように重たいので気を付けて読んでね('ω')




ここ数カ月、「死」ということばに些か
過剰に反応しすぎていた自分がいる。

それは同僚のことがあったからで、
常にそのことを考えているわけではないけれど、
ふとした瞬間に想い出してしまうのだった。

同僚のことは、そのまま忘れたくなかった。
だから、辛いけれど、その死をなぞるかのように
時たま記憶を反芻する。

世の中に死を題材に扱ったものは数多あるけれど
その死はサスペンスのようだったり、
余命幾ばくも無い患者をドラマチックな内容に
仕立ててあったりで普通の死を扱ったものは意外と少ない。

もしかしたら、元々死というものは
普通というものはなく、量産型のものでもなく、
人それぞれ形の異なるものなのかもしれない。

だから、共感を求めてそのような映画や小説を読んでも
なんだか違うような気がしていた。

けれど。

ふと、書店で手に取った本を、今読んでいる。

いくつかの章仕立てになっているが、
どれもその著者の個人に起きた死というものを題材に
エッセイ仕立てで書かれている。

同僚が亡くなった後、こういった個人的なエピソードを
それこそnoteやインターネット上で読み漁っていた。

そんなことをしていても何にもならないことは
心のなかでは分かっていたが、
同じような経験をしたひとの話を読んで
心の穴をどこか埋めたかったのだ。

人間、死ぬときはあっけなく死ぬ。
予告なく死ぬ。
あらゆる準備が無効化されて死ぬ。
(中略)
メメント・モリとは「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」
という意味のラテン語で、胸に刻み付けている言葉ではあるけれど

死なれちゃったあとで/前田隆弘

同僚の葬儀のときのことを想い出す。

そう、あの日は雨が降っていて、
セレモニーホールからの帰り道は皆終始無言だった。

そのあと、一緒に参列した職場の方々と夜遅くまで
ファミレスで話をした。

そのとき参列した仲間が、
亡くなった彼女をどれだけ好きだったか
どれほど大切に思っていたか
が嫌というほどわかって
想い出話は楽しかったけれど、
私はまた泣きたくなってしまっていた。

自宅に着いて。
お清めの塩を振らずに玄関のドアを開けた。
宗教上の理由ではなく、清める必要なんてどこにもないと思ったからだ。

その夜、ファミレスで話を聞けてほんとうによかった。
悲しいことと一緒に、そのシーンを想い出すことができる。

スペアザこと、SPECIAL OTHERSが
いつだったか
「人生ってこれだよね。思い出いっぱい作って死ぬ」
と言っていたがほんとうにその通りだと思う。

死なれちゃったあとでも、人生は続くし
自分もいつかは必ず死んでしまう。

そのことを分かりながら、
わたしは今日も一日を生きるのだ。






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