【小説】田辺朔郎 ③京へ
明治初頭 遷都により京都は衰退の只中にあった。起死回生の策として琵琶湖から京都に水を通す「琵琶湖疏水」が計画された。当時の技術水準を上回る無謀な工事に挑んだのは若干21歳の青年技師「田辺朔郎」だった・・・
上京
朔郎の京都派遣については、工部大学校より官費が支給されている。ただし期間は二週間であり、それ以上は自費でまかなう必要がある。叔父の太一からは援助を惜しまないと言われており、調査完遂まで京に留まるつもりである。
この当時の鉄道は新橋ー横浜間と神戸ー大津間しか開通しておらず、東京と京都の往復には、横浜港から蒸気船で三重県四日市港に入り鈴鹿峠を越え陸路上京するルートか、神戸港に入り汽車にて京都に向かう方法が一般的であった。
朔郎は現地調査を兼ねて四日市から鈴鹿峠を越えて琵琶湖畔を通り、逢坂峠を越えて山科から京都三条に至るルートを取る事とした。
行李に製図用具と必要最小限の生活用具を入れ、新橋から汽車で横浜に向かう。この当時汽車はまだ高級品で運賃が7千円かかり気軽に乗れる物ではなかった。官費派遣のありがたさである。
横浜港には懐かしい船影があった。9年前に見たあのゴールデン・エイジ号である。当時パシフィック・メール社により運営されていた横浜ー上海航路は、岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社により買収され、同船も「広島丸」と名を変え運行していた。海運において三菱は飛ぶ鳥を落とす勢いであり、西欧企業とも丁々発止の争いを繰り広げていた。
日本が世界に向けて坂道を上り始めた頃の一風景である。自分たちは西欧列強とも渡り合えるのだ、そういった自尊心の勃興期であった。
四日市までの運賃は7万円、現代で言えば飛行機に乗って海外に行くのと同じような感覚だろうか。洋上1日 四日市港に到着、ここからは徒歩で京都まで約110㎞ 最短3日の行程である。
東海道の坂道をのぼり鈴鹿峠より初めて目にした琵琶湖は晴れあがり、はるか彼方まで湖水を湛えて泰然とそこにあった。はやる気持ちが朔郎の足を急がせた。
「急がば回れ」の語源となった和歌は「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」である。
東海道の道中において、草津矢橋港から船で大津石場の港に行くのは早いけど、風待ちなどで思わぬ時間がかかる事もあり、急ぐならむしろ陸路で着実に行こうという意味である。その矢橋であるが、朔郎は、湖水水運の状況を見るため、矢橋から石場行きの丸子船に乗った。
江戸時代中期まで、琵琶湖を利用した水運は日本の物流の一大中心であった。北海道・東北・越後から日本海経由で大量の貨物が敦賀港で水揚げされ、山を越えて琵琶湖北端の塩津に至り丸子船に積み込まれ大津まで運び、陸路牛車によって逢坂峠と日岡峠を越えて京まで運ばれていた。
寛文12年(1672)河村瑞賢により「西廻航路」が開発されると、敦賀で荷を下ろさず そのまま関門海峡から瀬戸内海に入り直接大阪に至る航路を取るようになった。そのため物資は京都を通過せず直接大阪に送られる事となり、江戸後期において商都大阪と古都京都の経済は徐々に差がついて行った。
遷都により京都の重要性が低くなり、滋賀県では、京都を通らず大阪に直接つながる水運の構想も持ち上がっている。そうなると京都に人や物がますます回らない事となる。この事は北垣が疏水実現を急ぐ一因でもあった。
大津石場港付近の湖上から三井寺を見上げた朔郎は、ここに出来る水路をイメージした。そこには荷物を積んだ船が上下していた。
逢坂山
米蔵の建ち並ぶ湖畔を離れ京都に向かうと、東海道は逢坂山に向けて一本道で高度を上げていく。
大津ー京都間は既に鉄道が開通しており、街の喧騒を離れると歩く人は少なく、街道の主役は牛が曳く荷車となった。
いよいよ山道にさしかかる所に昨年完成したばかりの東海道線逢坂山トンネルがある。これが現在日本最長のトンネルであり、朔郎にとって参考にする所の多い物である。
明治13年6月28日に完成したこの鉄道トンネルは、イギリス積みレンガのアーチ構造となっており、入口部分は花崗岩によるアーチが作られ、装飾的な柱がせり出しており城壁のような構造物になっていた。
このトンネルは初めて日本人技師のみで作られたもので、現在の施工技術を物語っている。
なお、この時の東海道線は、現在の位置より南を通っており、馬場(現在の膳所駅付近)で折り返して湖岸に向かい、大津港で終点となっていた。琵琶湖の舟運がいかに重要視されていたかの証左であろう。
鉄道は高架で東海道と交差している。このあたりの街道は、人の通る道と車道が分かれており、荷物を積んだ牛車は一段下に作られた専用の車道を通っていた。
車道は二列に並べられた敷石の溝の上を、牛が曳く荷車が通るよう工夫されていた。
舗装とは異なるが、車両の通行を支える工夫としては面白い。舗装というより、むしろ軌道の働きをするように見受けられた。
牛や馬により運ばれる荷物を疏水にて運ぶ事ができれば、それは大きなメリットとなるに違いない。大阪から伏見までは水運が通じている。そこまで水路をつなげれば琵琶湖から大阪までつながる一大運河とする事ができる。歩きながら朔郎は疏水の構想をまとめて行った。
余談であるが、この2列に並べられた石は車石(くるまいし)と呼ばれるもので、文化2年(1805)に整備されている。幕末にここを通ったイギリス外交官アーネスト・サトウは、軌道の上を通行する米俵を満載した牛が曳く車40台とすれ違ったと記録している。
周辺調査
大津まで来れば、京都三条までは徒歩3時間ほどの距離である。京に入る前に、全容を把握するため、朔郎は比叡山頂上の四明岳に登った。ここからの眺めを朔郎は以下のように述べている
「東山の連山は南方に延びているが、その形極めて低平で大文字山如意岳なども足元の一小丘にすぎない。その東西の両側には近江盆地と京都平野とが広く展開していて、連山はわずかにこの二大平野の境界を区画している土手のようにしか見えない。」「結局天然の地形が誰にでも水利の可能性を悟らしめるようになっているのであり、技術の発達しない昔から企画されたのは当然のことである。」
京都に入る手前には最後の山塊、日岡峠が立ちはだかっている。この峠道については、明治10年に先代の京都府知事槇村正直が、峠を切り下げて勾配を改善し、最新のマカダム舗装が施されていた。粟田口処刑場の近くにはその事を記載した記念碑が建てられている。 記念碑を越えるとすぐ眼下に京都の街並みが広がった。
これ以降 朔郎は京都の発展のためその半生を捧げる事になる―
嶋田道生
少し時間を遡る。明治14年7月 北垣は、より詳細な測量を行うため、熊本県六等属 嶋田道生 を呼び寄せた。
北垣と同じ兵庫県養父市の出身で、北垣がかつて北海道開拓使で勤務していた時に、同郷のよしみで開拓使仮学校(後の札幌農学校)に年齢を偽って入学させ、そこでお雇い外国人のワッソンに測量を学んだ人物である。
以来北垣はその測量技術と仕事の精密さに全幅の信頼を置いており、任地に度々呼び寄せている。
すぐさま嶋田は三角測量を開始、概略図の作成にとりかかった。地理局が全国大三角測量計画のため京都市内に設置していた基線より三角形を展開して行き琵琶湖岸に到達させた。続いて各点から疏水予定線の標高を観測し概略路線を決定して行った。
嶋田道生37歳、測量術は円熟の域に達し、最も仕事ができる頃合いである。
京都府
朔郎が訪れた十月初め京都府庁では嶋田道生を中心に「疏水概略図」作成作業の大詰めを迎えていた。所員は連日慌ただしく出入りしている。
「嶋田先生、工部大学の田辺朔郎と名乗る者が来ています。」
「ああ、通してくれ。」
嶋田道生は先日 北垣知事より工部大学から来る田辺という者を見極めてもらいたいとの依頼を受けている。
「初めまして田辺朔郎です。疏水計画検討のために伺いました。」
「君が田辺くんか、単刀直入に聞くが、君は疏水工事のために何が肝要と考えるかね?」
「この計画の最大の障壁は 琵琶湖から比叡山の下を通すトンネル掘削であります。まずはトンネル掘削を両側から進めるため、正確な高低差測量が必要です。
山科北方の山麓を付け廻す事になると思われますが、勾配について東京の玉川上水は1/500でありますが通船に用いるならば、少々流れが速くなりますので、1/1000以下の勾配とする事が必要となりましょう。この点からも測量は計画の成否を判断するために重要となります。」
朔郎は疏水に関する構想を述べた。
「あいにく水準器や経緯儀は疏水略図作成のため、府庁で使用している。セキスタント(六分儀)や平板は必要かね?」
「ご心配には及びません、地理局から三等経緯儀を借用しております。」
「三等経緯儀があるのかね、それならば、今測量中の疏水測量点の検測をお願いしたい。こちらの基線・測量点の位置を写して帰りたまえ。案内人を一人つけよう。測量助手として使ってやってくれ。」
嶋田は内心 学生の身で、準備万端整えてきた事に感心していた。
「さて、どれほどの者であるか?」この検測はいわば嶋田のテストである。
点検測量
嶋田道生の測量は、京都市内に設けられた分木町の基線から三角測量を展開し大津市尾花川で終わっている。
朔郎は検測実施にあたり、尾花川に設けられた検査のための基線より逆側からの測量を実施する事にした。最終的に元の基線におけるズレを確認して測量の精度を検証するのである。
確認する1点ごとに、三脚を点の直上に来るように据え水平を取り、経緯儀を置き、気泡管にて水平調整、調整ネジにて測点直上への微調整をしたのちA点B点間の角度を観測、望遠鏡の取り付け方向を反転し、今度はB点側からA点との角度を観測する。
この作業を「一対回の測量」と言い、反転する事で機械の誤差を相殺し精度を上げる効果がある。いずれも微妙な調整を要する作業であり、測量精度に直結するため気を抜くことはできない。この作業を繰り返し繰り返し、長等山を越え山科盆地を横切り京都までの測量を実施するのである。
経緯儀20㎏を初め測量機材は60㎏を超える。地理局の京都事務所より一名、京都府より一名の測量助手と共に作業しているが、相当骨の折れる作業である。
夜は宿に戻り観測した角度を元に各点の距離を算出していく。この点は朔郎の独壇場である。通常三角関数の対数表をにらみながら測定値と乗算して計算するものであるが、朔郎の頭の中には対数表が記憶されているため直接計算ができた。
東京からの手紙
十月の末、朔郎が検測作業に没頭している頃 東京で一つの問題が立ち上がった。
叔父田辺太一の借金問題である。と、言っても太一自身の借金ではない。
生来気前の良い太一の所には何かと相談に訪れる人が多く、事業がらみの援助もよく引き受けていた。その出資先の一つが破産し、太一が保証人となっていたため、多額の借金を背負う羽目になったのである。
朔郎の学費を提供している太一の破産は、朔郎の学業の継続に問題を生じる一大事である。
噂は官庁街に広がり、大鳥圭介の耳にも入った。
「今 朔郎君は大事な仕事の最中だ、何とか心置きなく務めを果たせるようにしなくては!」
大鳥圭介は朔郎の縁者である荒井郁之助ら思いつく限り手紙を書き、朔郎の援助を請うた。
叔父の危機はやがて朔郎の耳にも届いたが、それを追うように支援するので務めを果たすよう励ます手紙が届いた。
北垣知事より託されて、京都の人々を助けるための仕事である。元より何があってもやり遂げる覚悟で挑んでいる。仕事に迷いを生じる事は無いつもりだが、親類の支援はありがたかった。
測量開始より四週間後、報告のため府庁を訪れた。
嶋田道生はちょうど「疏水略図」作成を完了させた所であり、朔郎の書類にゆっくりと目を通した。
・・・辺長計算まで終わっている?
「これを、君一人で仕上げたのかね?」
「はい。日中測量し、夜間に計算を完了させました。」
にわかには信じがたい。事実だとすると恐るべきスピードである。
検測の結果は嶋田の測量とほぼ整合しており、申し分無い出来映えである。嶋田は田辺朔郎が何者であるかを識った。
この若者が描く疏水計画を見てみたい!
嶋田は完成直後の疏水略図の他、平板測量による平面図に琵琶湖水面レベルを書き入れた図面など、疏水計画作成に必要な資料を提供する事を約束した。
地質調査
「藤尾の長等山トンネルラインに気になる風化花崗岩の露頭があります。トンネルラインの地質を調べるため府庁の削岩機をお借りしたい。」
朔郎は測量中に発見した箇所の追加調査を申し出た。
地質調査は、地表面に出た地質と、地層の傾斜の方向を観測し、地下の地質を推測するものであり、時に大規模な掘削と岩盤の破壊等が必要となる大掛かりな調査となる。
トンネルの掘削には掘削しても崩れない安定した地質が望ましく、堅すぎても掘削困難となるのだが軟弱地盤を掘削する困難はそれを上回る。
花崗岩は風化すると「まさ土」と呼ばれる白っぽくサラサラとした砂のような状態になる。時にまさ土は地表から100m以上の深さまで深層風化帯を形成する事があり、このような場所では掘削断面を保持する事に非常な困難を生じる。場合によってはルート変更が必要となる。
朔郎が気にしている露頭は小関越えの脇、後に第一シャフトが設けられる付近にあり、砂質化した斜面の上に松の木が生えている。
削岩機というのは岩を砕くための機械ではなく、正確には穴をあけるための機械であり 英語ではロックドリルという。
先端のノミが激しくピストン運動しながら回転する事で、深い穴を穿っていく。
あけた穴にダイナマイトを仕掛けたり、クサビを打ち込むことで大岩を割る事ができる。
現代ではエンジン式で持ち運び可能な機械もあるが、この時代のものは蒸気機関で作り出した圧縮空気で削岩機の先端をピストン運動させるものであり、本体の自重もさることながら、蒸気機関を含め非常に大掛かりな装置である。
府庁には先日導入されたばかりで、初めての実地運転となる。職員一同総出で機械を運び上げ、朔郎が中心となってセッティングをおこなった。
英文の説明書を見ながら組み上げ、朔郎の合図で圧縮空気を送り出した。とたんに削岩機は激しく振動を開始し、機械に添えていた朔郎の右手を機械の間に打ち付けた、
「痛ッ!」朔郎の右手中指に激痛が走る。
「田辺さん!大丈夫ですか!?」
「・・・大丈夫です、骨は折れていないようです。」
ズキズキと痛むが、血もでておらず、重症ではなさそうだ。
朔郎は何とか作業を終え、露頭の風化状況の調査を完了した。
初の京都出張は大きな成果をあげ帰途についた。
右手の痛みは軽くなっており、そのうち治るものと楽観していた。
卒業論文
さて、叔父の借金問題については債務整理の結果、朔郎の卒業まで月十四万円の学費を確保できる事となり落ち着いた。
朔郎は、嶋田道生より提供された測量結果と現地調査を基に、疏水計画をまとめる作業に着手した。
疏水ルートの選定、実現可能性の検討、通水断面の決定、流水の量、トンネルの工法、通船のための勾配検討、水力の工業利用、灌漑計画、上水道の計画、消火設備への利用、研究内容は多岐にわたり色々と検討していたところ、京都の嶋田道生より、二月に南一郎平が疏水の調査に訪れまもなく意見書が提出されるとの知らせがあった。
八方手を尽くして大鳥校長に渡りを付けてもらい、内務省に提出された南一郎平の「意見書」及び「水利目論見表」の写しを取る事が認められた。
南一郎平の計画は、南の調査結果を基にお雇い技師ファン・ドールンらの意見を反映し作成されたもので、竪坑工法(井戸間風と表現)の採用をはじめ、後の疏水計画に近い内容のものであった。
朔郎は、論文を大幅修正すべくとりかかったのであるが、どうにも右手の調子が悪い。骨折などはしていなかったため、そのうち治るものと軽く見ていたのだが、炎症を起こしたようで段々痛みがひどくなり、次第に右手がしびれてほとんど使えなくなり、ついには肩から吊っているだけで激しい痛みを感じるようになった。
叔父の借金問題があるため入院して卒業を伸ばす事はできない。朔郎は左手で論文をまとめる決心をした。
利き手ではない左手で文字を書く事も大変なことだが、疏水計画の論文には作図が伴う。
たとえば平行線を引く作業を片手で行おうとすると、三角定規を重りで固定し、定規をずらし、ずらした定規を重りで固定し定規をずらし、定規を重りで固定して線を引くという操作が必要となる。まごまごしているとインキを付けたカラス口が乾いてしまい線が引けなくなる。それを利き手ではない左手でおこなうのである。
級友からは「せめて、ケガをしたのが左手だったらよかったのに。」と同情の声があったが、朔郎は「なに、どうせやるなら左手一本でやった方が話のタネになっていいかもしれません。」と笑ってみせるのだった。
痛む右手を吊りながら左手一本で論文を完成するにはかなりの時間がかかり明治15年11月に提出された。
タイトルは「琵琶湖疏水工事の計画」。
つづく
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