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⑧ あとがき というか まえがき

昨年末 京都国道事務所が保管している「国道改築史写真帳」というアルバムを見せていただく機会があり、中身を確認したところ、昭和6年~8年に実施された京津国道改良工事(逢坂山~蹴上までの道路改築工事)の写真でした。

同工事は、世界恐慌発生後の不況対策である「時局匡救事業 じきょくきょうきゅうじぎょう」の一環として失業者の雇用を生み出すとともに、増大しつつある道路需要に対応するために実施されたものです。

アルバムの中身やら時代背景を解説すると別に一冊本が必要になるので省略しますが、その中の1枚に「車石(くるまいし)」が旧態のまま発掘された写真がありました。これがなかなか貴重な写真なのです。

京都国道事務所 京津国道改良工事写真をカラー化

「車石」とは京都周辺の街道に「牛車(うしぐるま)」の通行の便をはかるため整備されたもので、2列に並べられた大石の間約90㎝が牛の通路であり、牛が曳く荷台の車輪は石の上を通るので、道路の損傷を防ぐ事ができるという一種の舗装です。
 大津から京都三条までの間に本格的に整備されたのは1805年と考えられています。

明治10年頃の道路工事でマカダム舗装(イギリス人技師マカダム考案による砕石舗装)が実施された際に撤去されて、現在は、周辺民家の石垣などに転用されているのですが、深い溝が刻まれた物が多く、この溝が最初から付けられていたものか、通行による摩耗で自然にできたものかという論争が過去にありました。
 現存する車石の溝の深さがバラバラであることや、発注に溝の工賃が入っていない事などから通行により徐々に溝が出来たというのが定説になっています。

京津国道改良工事記念碑基壇に転用された車石(山科区日ノ岡朝田町)

発見された写真は溝が無く、溝が通行により自然についた事の証左となる貴重なものです。

さて、大津から京都まで車石が整備されたのは、大津港で水揚げされた荷物を京都に運ぶためで、琵琶湖水運の重要さを物語るものですが、街道を歩いているうちに、大津ー京都間の交通は歴史上、東海道・東海道線・琵琶湖疏水、すなわち、道路・鉄道・舟運と3種の物流が集中しているホットスポットである事に思い至りました。
 この付近の近代以降の物流に関する整備を項目だけ並べると以下のようになります。
 
1738 日岡峠 道路改修「大石砂留法」木食養阿
1805 大津―京都三条間「車石」整備 脇坂義堂?
1880 東海道線 京都―大津間 開業
1887 日岡峠修路「マカダム舗装」京都府 槇村正直
1890 琵琶湖疏水建設 京都府 北垣国道・田辺朔郎
1911 京津鉄道 三条―大津市 開業 
1921 東海道線 ルート変更
1933  京津国道改良工事「膠石コンクリート舗装」内務省
1963 名神高速道路 
1964 新幹線開業
実に濃いです。

そんな感じで琵琶湖疏水についてもちょっと調べていたのです。

話しは変わりますが京都市から亀岡市に入った所に王子橋という明治17年竣功の橋があるのですが(土木学会選奨土木遺産)たまたま140周年という事で、調べていたところ、田辺朔郎の名前が出てきました。

「選奨理由:田邊朔郎設計の石造アーチ橋で、輪石と壁石が夫婦天端で一体化した非常に珍しい構造形式をもつ道路橋(現在は人道橋)である。」
 
お!琵琶湖疏水で有名なあの田辺朔郎ですか、それは凄い!
いつの時代の仕事なのかな・・・
琵琶湖疏水よりも前だと!?

ちょっと待て!!

王子橋の事業化は明治15年、竣功は17年となっている。15年から17年というと、田辺朔郎が初めての京都調査から帰って卒論を作成していた頃から、京都府に勤め始めて疏水工事の特許を得るために議会や政府と交渉していた頃、そんな時期に設計した? ホントに?

田辺朔郎関係の文書を調べてみる事にしました。
 ちょっと前までインターネットというものは、つまるところ誰かが調べた事しか分からないものでしたが、令和4年12月21日に「国立国会図書館デジタルコレクション」がリニューアルされていて、全文検索可能な文書数が、5万点から247万点に大幅拡充されていて、田辺朔郎関係の文書も大量に見つかりました。

これまで専門家が時間をかけて渉猟するほか無かった歴史的文献がネットの検索で手に入るようになっていたのです。国立国会図書館に大感謝です!

歴史を調べる場合、なるべく古い物・当事者に近い資料を根拠とするのが鉄則です。
 田辺朔郎の経歴については、大正12年に田辺博士の還暦祝いで、お弟子さんから送られた「田辺朔郎博士六十年史」という本があり、内容については疏水工事時代の夜間教室の教え子である小西得太郎氏が集めていた資料に基づき、疑問点については田辺博士本人に確認して記載し正確を期したとの事であり、田辺博士関係の資料としては一番信頼できるものと考えています。その他「琵琶湖疏水誌」「琵琶湖疏水工事略誌」などに年表があり田辺博士の行動を追う事ができます。

調査した資料の中に明治17年に北垣知事と共に田辺博士が「宮津街道調査」を行ったという記事がありました。京都府の技術者として宮津街道の検査をおこなったようですが、設計施工段階でいったいどこまで関わったのか・・・

ここで少し宮津街道「京都宮津間車道開削工事」について説明します。
都市が発展する条件の一つとして、街道が集中する結節点(衢地(くち))である事が上げられます。

北垣知事が琵琶湖疏水起工趣意書において「京都は四通五達の地にあらず」と述べていますが、それを解消するため、明治14年知事就任後ただちに取りかかったのが「疏水事業」とこの「京都宮津間車道開削工事」なのです。
いわば疏水事業とはその目的を同一とする姉妹事業にあたります。

疏水工事がその規模と新規性において未曾有なものすぎて「京都宮津間車道開削工事」は全く目立ちませんが、当時京都~宮津には車両の通行できる道が無く、二泊三日を要する難路でありましたが、5.4m幅の舗装道路を整備して馬車で15時間で通行可能にした大変意義のある事業です。

この事業に関しては高久嶺之介氏が調査を行い、社会科学2006年76号から報告されています。

同報告の記載内容(抜粋)
「京都新聞」1981年(S56)10月12日付・・・同紙はこの橋の設計者を琵琶湖疏水工事の工事責任者であった田辺朔郎としているが、後述するように「京都宮津間車道開削工事成績表」の「事業関係者」に田辺の名は無く、筆者は田辺の関与を示す直接的な史料を把握していない。          

なんだ、著名な田辺博士の名前にあやかろうとした新聞社の後付けか・・・当時の博士は疏水工事に全力を注いでいた時期であり、関与していないと結論付けるのが妥当だろうな。これにて一件落着!

とは、ならないんです、この話し。

再び選奨土木遺産の解説文に戻ります。
「ぱっと見た感じでは隧道ポータル(入口の構造)によくみられる、水平方向に並べられた帯石の下に五角形の盾状迫石(たてじょうせりいし)が配置されているように見える。しかしよく見ると盾状迫石は4~6つの小さな石で構成されており・・・」

この盾状迫石を集合体にて作る発想の出所が全くのなんです。
いくら探してもこういった盾状集合迫石の事例が見つからない。
恐らく世界でもこの橋にしか無い構造と思われます。

ここで説明のため、少し石造アーチ橋について解説します。
石には、圧縮する力に強く、引っ張る力に弱い特性があります。
例えば石の板の上に乗ると割れますが、圧縮して潰す事はできません。

下図で、路面にかかる加重を緑の円弧状の部分で受け止め、円弧を構成する石の間では圧縮する力のみが働くようにする事が、アーチ構造の堅固さの秘密です。

九州地方整備局作成資料 ①道路橋石橋の構造特性と現状 から

この円弧を形成する台形の石を輪石(わいし)もしくは迫石(せりいし)といいます。

この迫石は通常台形に形成されます。盾形に形成される事自体珍しいのです。

一説では日本の石橋は90%以上九州にあるそうです。
 江戸幕府は防衛政策上、川に橋を架ける事や、街道での車の使用を原則禁止していました。(京都周辺の牛車は例外措置です)
 江戸時代初期、長崎にオランダ人から石造アーチ橋の技術が伝わり、九州では盛んに作られたのですが、山陽道・東海道に作られる事はありませんでした。(※石造アーチの伝播ルートは複数あります。)

九州の石橋の写真をいくら探しても盾状の迫石は見つけられませんでした。

九州地方整備局資料より

盾状迫石の使用例を調査して見つけた一番古い事例は、明治13年の旧逢坂山トンネルの入口部分の細工に使用されたもので、それ以降明治20年前後の使用例が多く、大正期以降は鉄筋コンクリートが普及し、石造アーチ自体極めて少なくなります。

東海道線旧逢坂山トンネル西口
フーザックトンネル(米)などを参考にした隧道ポータルのデザインと思われ、道路橋とは趣旨が異なりますが、ここではアーチ構造物として隧道ポータルと道路橋を分けず話を進めます。

京都宮津間車道開削工事自体においても、粟田隧道「撥雲洞」老ノ坂隧道「松風洞」「旧岡田橋」などに事例が見られます。(ちなみに旧岡田橋も田辺朔郎の設計と説明されています・・・)

京都府の技術者の中にこの様式を多用する技術者が居たと思われる
インターネットの画像検索で発見した盾状迫石の使用事例一覧

つまり、盾状の迫石は明治になって伝わった西洋の新しい様式で、明治の一時期だけ作られた特殊な構造物であるという事です。

しかし王子橋のように小さな石の集合体で盾状迫石を作った事例は無い。
まるで形だけを真似して作られたたような・・・
 
田辺博士自身はアーチ構造をどのように考えていたのだろうか? 
 博士の著作で「袖珍公式工師必携」という本があります。本文では紹介できませんでしたが、疏水工事の夜間教室で使っていた図や表をまとめて出版した日本初の土木ハンドブックです。
 出版することについて博士は、完全な物ではないのでと最初固辞していたものですが、当時土木を勉強する人は英語のテキストしかなく苦労しており、完全な物とするまで待つより今、人の役に立てた方が良いと友人に説得され出版に至ったという経緯があります。
 そこで示された図には盾状迫石が描かれており、当時標準的な構造との認識があったものと思われます。

国立国会図書館デジタルアーカイブ

では、実際の施工において田辺博士がどうしていたかというと、盾状迫石を使用した第二トンネルのような事例も見られますが、多種多様な構造で柔軟に使い分けています。

もし、王子橋を田辺博士が作ったとしたら、小部材を組み合わせて形だけ真似るような事はせず、小部材しか手に入らないなら、小部材で2重3重のアーチとしたはずです。(その方が構造的にも丈夫になります。)

西洋の技術が意識されている。しかし西洋の技術によって作られているものではない。非常に奇妙な構造物で頭を抱えます。
 どうしてこのような物が出来たか推理すると、工部大学卒業生など西洋の技術を学んだ者からアーチ構造はこういう物だという話しを聞いて、既存の技術で形を真似たという事ではないか。
 なんとなれば、田辺博士自身が一般図として構造を示した可能性が依然残され、そうなると田辺朔郎設計という話しもあながち嘘ではない。

結局この話について結論は出ないのですが、資料を調べている中で、現在一般に流布している田辺博士関係の説明が間違っているのではないかというのが段々と気になってきました。

特に、田辺博士が琵琶湖疏水に関わる事になった経緯と卒業論文に関する経緯が、ちょっとあり得ない話しが通説になっているように思います。

六十年誌に書かれている経緯は、大鳥圭介から北垣知事に紹介された博士が一念発起して疏水計画の論文を書き上げたという筋書きですが、戦後に書かれた物では、独自に疏水を研究していて、それを見た北垣知事が一目で博士の事を認めて疏水工事の責任者にしたのだと。

あり得ない想定だと思います。

まず、測量というのは一人ではできません。測量ポイントを押さえてポールを持つ助手がいないと、測量点と観測器械の間を微調整のため何度も往復しなければならなくなります。これは左手で論文を書く事など比にならない困難な作業です。
 一人で山の中をさまよい調査したとして、何ほどの事ができるだろうか。

次に工部大学の講義内容を調べると、実地教育に相当時間を割いており、生徒は卒業前の五、六年次には工部省所管の各種事業に出入りし、事業を実践していた事が分かります。
 このような教育を受けた人が学友達が各地の公共事業に出入りして実地に事業をおこなっている中、ただひとり徒手空拳で疏水計画を立てる事は考えられません。
 当然のごとく京都府の疏水事業部門と連絡を取り合い計画を練ったはずで、現に田辺博士が南一郎平の疏水目論見書を写し取った物が疏水記念館に展示されています。 

田辺博士周辺の人間関係を調べても、縁戚の荒井郁之助などは北海道開拓使でお雇い外国人から測量を学んだ第一人者であり、こちらの助力を仰がないはずはないと考えます。
 ちなみに北海道開拓使では、本文に登場する人物の運命が多数交錯しており、日本の文明開化の震源地の一つであった事が分かります。(本文に登場する人物では北垣国道・嶋田道生・荒井郁之助・榎本武揚・大鳥圭介などが北海道開拓使に関与しています。)

その後、現在の通説の元になった「琵琶湖疏水及水力使用事業(S15)」「琵琶湖疏水の100年(H2)」の記載を確認しましたが矛盾点も多く、通説が間違っているとの思いは変わりませんでした。

歴史小説において、話しを面白く演出するため創作するのは当然の事なのですが、どうも田辺博士関係では、それが事実と混同されている事が多々目について、何とかしなければいけないと勝手な使命感を感じたのがこの小説を執筆したきっかけなのです。

もちろんこの小説にも創作や誇張、順序の入れ替えはありますが、伝えられている出来事を元に、こういう事だったのではないかという有り得る話として構築しています。

一つの仮説として今後の研究の糧となれば幸甚です。

              令和6年11月朔の日 


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