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田辺朔郎の武勇伝 ①工部大学時代

自分の推しの土木技術者 田辺朔郎の武勇伝を紹介します。
(田辺朔郎が好きすぎて多少盛っているところはありますが、概ね事実です)
(過去記事と重複しています。)
※田辺朔郎は琵琶湖疏水の設計・施工をおこなった技術者です。


円周率を70桁暗記!

ある日の授業で円周率の算出法の授業があり、
試験において田辺朔郎は50桁を記載した答案を提出。

カンニングを疑った教官に対し「お疑いであれば、この場で書いて見せます」と言うや50桁を記載。

唖然とする教官に対し「更に20桁ほど書き添えます」と言うや70桁までの数値を記載したと伝えられている。

数学界2000年の課題を解決!?

ギリシアの3大図形問題「円積問題」「立方体倍積問題」「角の三等分問題」のうち、「角の三等分問題」に関する授業において、図上で角は2等分できるが3等分する事はできないと解説された。

田辺朔郎はその場で一種の曲線を考案して、その曲線に切線を引くことで三等分してみせた。

驚いた教授が「君は今習っている数学よりも遙かに程度の高い数学を学んでいるのか?」と尋ねたところ、
「いえ、自分はいま先生から受けつつある授業の他には何も知りませぬ」と答えたと伝えられている。

2週間でまとめたレポートがイギリスの専門誌に掲載!

ある日の授業で剪断力に関する講義があり、
色々な部材を組み合わせた図式がまだ無い事を聞いた田辺朔郎は2週間後、図式の論文を提出。

教授はその出来映えに驚嘆、大学から特別に賞が与えられ、その論文はイギリスの工学専門誌エンジニヤリングに掲載された。
と伝えられている。

在学中に琵琶湖疏水工事の責任者に抜擢される!

明治14年 第三代京府知事に就任した北垣国道は 琵琶湖疏水工事の担当技術者の斡旋を工部大学校長大鳥圭介に依頼、卒業を2年後に控えた田辺朔郎が推薦された。(通説ではこの出会いは明治15年とされていますが、自分は14年と考えています。)

セキスタント・ハンドレベル等測量機材を風呂敷に包み、東海道を徒歩で10日かけて京都に赴き現地調査を実施した。
と伝えられている。

左手一本で卒業論文を書き上げる!

京都での調査中、田辺朔郎は利き腕の右手を負傷。
骨膜炎を起こし右手が全く使えない状態に陥った。
当時の田辺家の経済事情(家計を支えていた叔父が破産)と入院していては卒論が間に合わないため、左手だけで論文を仕上げる事を決意。

「せめて怪我したのが左手だったらよかったのに・・・」と心配する級友をよそに
「なに、同じ苦労をするなら、左手一本でやってのけた方が話の種にもなって良いかもしれません。」
と言い放ち、左手一本で複雑な製図もこなし卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」を書き上げた。
と伝えられている。

余談ながら、この論文の現物が存在しないことで、博士の功績を過小評価する言説があるが、自分はこの論文は京都府の疎水計画そのものであったと考えており、下記動画に出てくる「琵琶湖疏水計画書 田邊朔郎」と書かれた文書がそれに当たると推測しています。

びわ湖疏水 開通六十年記念|映像|デジタルアーカイブ|目録・デジタルアーカイブ|琵琶湖疏水記念館
2分40秒頃

つづく
次回は疎水工事時代の武勇伝になりますが、枚挙にいとまなく、かなり長文になるかも・・・

(備忘録)
明治6年設立された工学寮工学校は明治10年に工部大学校に改称されている。田辺朔郎は工部大学校の初等機関 工学寮小学校に明治8年13歳で入学、半年ごとに行われる試験を当然のごとくストレートで通過(工学寮小学校では1級から4級にクラス分けされており、半年に一度の試験に合格しないと進級できません、これを4回、もしくは5回で通過した者は海外留学する資格を得た事からストレートというのはかなり難しかったと思われます。)なお6回で大学に進学できなかった者は退学だそうで、キビシーッ!!
https://dl.ndl.go.jp/pid/12115793/1/4
旧工部大学校史料

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