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連載⑥ 戦争と絶対隔離政策 ―― 戦前の無らい県運動(2)

 今年5月、江連 恭弘・佐久間 建/監修『13歳から考えるハンセン病問題 ―― 差別のない社会をつくる』を刊行しました。(以下の本文では『13歳…』と略します。)
 編集を担当した八木 絹(フリー編集者、戸倉書院代表)さんに、本に寄せる思いを書いていただきました。不定期で連載します。

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映画にもなった小川正子のベストセラー『小島の春』

 「無らい県運動」に大きな影響を与えた人物に小川正子医師(1902〜43年)がいます。山梨県で生まれ、女学校を出て結婚しますが、離婚。医師を志し、光田健輔に心酔して患者の「救済」に身を投じる決意をします。何度も懇願した結果、1932年、手荷物一つで押しかける形で、長島愛生園の医師となります。

 小川は光田の指示で、四国や瀬戸内の島々を駆け回り、ハンセン病患者の収容のための検診・説得にあたります。この活動の過労から、結核を発病し、41歳の若さでこの世を去ります。療養中に光田の勧めで書いた収容活動の手記が『小島の春』(長崎書店、1938年)です。ベストセラーとなり、1940年には映画化されました。

「小島の春」(豊田四郎監督、東宝)
現在、YouTubeで見ることができる。
1940年『キネマ旬報』ベストテン日本映画部門1位
(外国映画部門1位は、ベルリンオリンピックのプロパガンダ映画
「民族の祭典」レニ・リーフェンシュタール監督)。
イラスト:佐々木こづえ

 映画の主演は女優の夏川静江(映画では「小山先生」)。その姿が大写しになると、清楚な美しさに息をのむほどです。

 ハンセン病は古くから「業病(ごうびょう)」などといわれ、1930年代の村々では、人々はハンセン病を「血統」(遺伝)によるものだと思い込んでいました。小山医師は説明会を開いてハンセン病は感染症であることなどを詳しく説明します。

 桃畑に掘立て小屋を建てて一人で10年も暮らしている女性を訪ね、「寂しいでしょうね。こんな所で一人でいるより、大勢で楽しく暮らした方がいいでしょう。私の勤めている長島の病院には、あなたのような病人が1200人もいて、一つの村をつくって住んでいるの。そこへ行けば、みんな何の気がねもなしに、芝居や活動を見たり、浪花節を聞いたりして、元気で治療することができるのよ。ラジオもあってよ。行きましょう」と優しく話しかけます。

 小山医師が村で一番症状が重いと目している農家の横川。医師は一緒に療養所に連れ帰ろうと考えますが、子どもも多く、農作業も大変で拒み続けます。何とか説得して「明日の朝7時に船着場」と約束したものの、若い妻(女優は杉村春子)は麦畑の真ん中で泣いています。

 翌朝、時間になっても船着場に横川の姿はありません。村長と小山医師が家を訪ね、村長がついに「そんな体でいつまでもグズグズしていて、警察の方から行けと言われて行ったんじゃ、お互いにおもしろくないと思うから、わしが事を分けてあんたに頼んでいる」と脅すと……。

 無垢な患者と、懸命に入所を促す若い女医、背景には瀬戸内の美しい島と海が広がります。観客は「どうか横川が決心して、船着場に来ますように」と祈るような気持ちで映画に見入るのです。これが「無らい県運動」におけるこの映画の効果といえます。

 本の『小島の春』には、こんな一節があります。「そうしていま、その11名(高知から療養所へ出発する患者のこと―引用者)は身を以て祖国を潔める救癩戦線の勇ましい闘士として、新らしき地に、われら唯一の戦場であり、また楽土である療養所に向けて出発する希望の朝だ。私達の列車も出征なのだ」(新装版、長崎出版、2003年)。軍人が戦地に行くように、ハンセン病患者は療養所へ行くべきとの光田の言葉と重なります。

 私は今年8月初め、「小川正子資料館」(山梨県笛吹市、春日居郷土館内)を訪ねました。小川は1984年に旧春日居町名誉町民となり、母校にも歌碑があります。展示内容は、患者「救済」への功績を高く評価するもので、その「収容」が患者たちにどのような結果をもたらしたかの考察はありませんでした。

収容の強化と療養所内の状態―― 高い死亡率はなぜ

 小川正子医師が島々を回って入所を促した患者たちが入った療養所とは、どんな場所だったでしょうか。『13歳…』では、第3章「ハンセン病療養所はどんな場所か」で、1941年に多磨全生園に14歳で入所した平沢保治(ひらさわ やすじ)さんの自伝を紹介する形で伝えています。詳しくはそちらを読んでいただきたいのですが、ここでは、太平洋戦争下での療養所の様子についての最近の研究をみてみます。

 ハンセン病と子どもの問題で多くの業績がある清水寛埼玉大学名誉教授は、著書『太平洋戦争下の国立ハンセン病療養所』(新日本出版社、2019年)で、太平洋戦争が始まった1941年から占領期の47年までの国立ハンセン病療養所入所者の死亡率を表にしています。

 それによると、戦後開設した駿河療養所(静岡県)を除く12園のうち10園で、この7年間の中で死亡率が最も多い年は1945年となっています。戦争が激しくなるにつれ、死亡率が高まる傾向がありました。中でも45年の死亡率が突出して高いのが、沖縄県の宮古南静園の31.9%と沖縄愛楽園の26.4%。ほかの10カ所の最多死亡率(平均9.66%)の2〜3倍となっています。軍部は沖縄決戦に備えよと県民を動員し、療養所に入っていないハンセン病患者の収容を強化しました(本連載③で紹介)。沖縄愛楽園では1938年の開園時には定員250人だったのが、44年の入所者は913人に膨れ上っていました。

 清水氏は「とくに宮古南静園の3割を超える死亡率の大きな要因には、米軍の空爆により園の施設がほとんど壊滅状態に陥り、職員は職場放棄し、在園者は四散して近隣部落の海岸付近などで避難壕(ごう)生活を送り、極度の栄養失調と各種疾病の悪化を生じ、とりわけマラリアに罹患して病死する場合が多かったことが挙げられよう」(清水前掲書)と指摘しています。宮古南静園では、戦争末期、海岸の崖にある自然壕ぬすとぅぬがまに入所者が避難し、その中で煮炊きをしながら米軍による空襲を避け、110人あまりが命を落としました(『13歳…』の表紙の写真は、壕の内部から海を見たものです)。

表紙には、「ぬすとぅぬがま」から見た海の写真を使っている

 戦争期に療養所での死亡率が高まった理由はいくつもあります。まず、療養所は職員の配置がまったく不十分で、そこでの生活にかかわる多くが「患者作業」で担われていたことがあります。敷地内の建物の建設や道路敷設、食事も自給自足で、農業をし、牛や豚、鶏を飼ったり、動物や人のし尿を肥料として畑にまいたり、洗濯、理髪、園内の教室での子どもの教育、死亡者の火葬も患者の仕事でした。薪拾いや運搬、雪深い地方での雪下ろし、雪かきは重労働でした。療養所であるにもかかわらず、重症者の看護や介護も患者の仕事とされました。

 こうした労働でケガをしたり、疲労することで、入所者の病状は悪化し、手足の指先を失う人が続出しました(*2)。戦争期には、入所者が増加する一方で、職員は徴兵されて減少し、残された患者たちは、失明者や肢体不自由者までが食料増産や介護労働に駆り出され、体調を悪化させ、病死していきました。

*2 ハンセン病の症状として、手足の末梢神経の感覚がなくなり、熱さや痛みを感じなくなることがある。そのため、ケガや火傷に気づかず、手足の指を切断せざるを得ない人が多かった。日本の療養所ほど重症者が多い所は世界にないといわれる。こうしたハンセン病特有の外形の変化が差別の対象となった面がある。

1935年、全生病院(現多磨全生園)での患者作業による養豚
(写真:国立ハンセン病資料館提供)

  もう一つの理由は、「癩予防法」によって療養所は外出の自由がない隔離を強制されていたことです。空襲を受けても脱出することは許されず、疎開については検討もされていません。

 戦況が悪化すると、沖縄以外の本土でも療養所内に防空壕を掘る作業が行われました。防空壕を掘ったとしても、そこに逃げることは患者にとっては困難でした。清水氏は前掲書で次のような声を紹介しています。

 「暗くて寒く、じめじめした防空壕に、人に負われて避難することは、とりわけ重症者には苦痛であった。警報が長く、空襲が何回も続くと、病気がごね、栄養失調で抵抗力のない者たちにはてきめんにこたえた。彼我の砲火が夜空をこがすことがあっても、このままにしておいてくれと弱々しく訴え、殆どかえりみられることもなく息の絶えてゆく者が増えていった。〔…〕実際ばたばた死んだ。一体、何のために生れた命であったのか。黙って死んでゆくことが国のためだというのなら、国家とはどういうものなのか」(初出は、長島愛生園『昭和十六年年報』1942年)

 ハンセン病療養所のこうした実態は、光田健輔が入所せよと発破をかけ、小川正子が諭した先にあるはずの「楽土」とはかけ離れたものでした。

◉次回以降の連載予定
第7、8回 胎児・臓器標本の謎
第9、10回 療養所のこれから

*本稿は、多摩住民自治研究所『緑の風』2023年10月号(vol.279)にも掲載されます。

◉『13歳から考えるハンセン病問題―差別のない社会をつくる』目次から

第1章 なぜハンセン病差別の歴史から学ぶのか
ハンセン病患者・家族が受けた激しい差別/ハンセン病とはどんな病気?/新型コロナ差別にハンセン病回復者からの懸念/過去に学び、今に生かす

第2章 ハンセン病の歴史と日本の隔離政策
日本史の中のハンセン病/世界史の中のハンセン病/日本のハンセン病政策/日本国憲法ができた後も

第3章 ハンセン病療養所はどんな場所か
ハンセン病療養所とは?/療養所内での生活/生きるよろこびを求めて/社会復帰と再入所

第4章 子どもたちとハンセン病
患者としての子どもたち/家族が療養所に入り、差別された子どもたち/生まれてくることができなかった子どもたち

第5章 2つの裁判と国の約束
あまりに遅かったらい予防法の廃止/人間回復を求める裁判/家族の被害を問う裁判

第6章 差別をなくすために何ができるか
裁判の後にも残る差別/菊池事件 裁判のやり直しを求めて/これからの療養所/ともに生きる主体者として学ぶ

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