連載④ ハンセン病差別の歴史から ― ヨーロッパと日本(2)
今年5月、江連 恭弘・佐久間 建/監修『13歳から考えるハンセン病問題 ―― 差別のない社会をつくる』を刊行しました。(以下の本文では『13歳…』と略します。)
編集を担当した八木 絹(フリー編集者、戸倉書院代表)さんに、本に寄せる思いを書いていただきました。不定期で連載します。
宗教者によって担われた「救済」―― ラザレット、日本の寺院など
ハンセン病は紀元前から中東周辺に存在し、アレクサンダー大王の東征(紀元前4世紀)やゲルマン民族大移動(4世紀)、十字軍のエルサレムへの遠征(11・12世紀)などでヨーロッパに広がりました。
3世紀にはキリスト教の教会が「ラザレット」という施設をつくり、患者を「救済」するようになります。7世紀ころ、患者の増加とともに、国による施設「らい院」がつくられ、法律で強制入所させるようになりました。
日本では、古くは『日本書紀』(720年)に、朝鮮半島の百済(ペクチェ)からの渡来人の中に患者がいたことが記されています。
仏教の普及とともに、ハンセン病は前世に犯した罪に対して与えられた罰であるという考えが広がり、「天刑病(てんけいびょう)」(天が罰として与えた病気)、「業病(ごうびょう)」(前世での悪事のためにかかった病気)と呼ばれるようになりました。こうしたことから、患者は故郷の家にいられず放浪するようになり、寺や温泉地に集まるようになります。
『13歳…』ではコラム「僧とハンセン病患者」で紹介しましたが、鎌倉時代に極楽寺(神奈川県鎌倉市)を開いた僧忍性(にんしょう)(1217〜1303年)は、ハンセン病患者や物乞い、「非人」、貧しい女性や動物まで保護し、寺の周囲に住まわせ、食事や薬を与えました。そのことが「極楽寺絵図」で伝えられています。
熊本県の本妙寺(ほんみょうじ)、山梨県の身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)など大きな寺には、参拝者に施しを求めるために患者が集まりました。群馬県の草津温泉は皮膚病に効くといわれ、ハンセン病患者の湯之沢集落(*2)ができました。また、四国遍路にはハンセン病患者が多く、宮本常一『忘れられた日本人』(岩波現代文庫、2013年、など)にも登場します。
*2 湯之沢集落 1887年草津温泉町下方に行政区として成立した自由療養地。1930年のピーク時には患者とその家族803人が住んだ。飲食店などを自営し、納税・兵役の義務も果たし、議員も輩出した。隔離政策の中で解散させられ、栗生(くりう)楽泉園に収容された。
ヨーロッパの宣教師たちは、16・17世紀に来日し、大分、大坂、京都、長崎、などにハンセン病患者のための病院をつくりました。しかし、豊臣秀吉や徳川幕府のキリシタン迫害により壊滅させられたのです(山本俊一『日本らい史 増補』 東京大学出版会、1997年)。
明治期、日本にはさらに多くの宣教師が来ました。劣悪な環境下で放浪する患者の実態に「救済」の必要を感じ、神山復生(こうやまふくせい)病院(静岡)、回春(かいしゅん)病院(熊本)など7カ所の私立療養所(うち2カ所は日本人による)をつくりました。
隔離政策の開始と「救癩」思想―― 沖縄を例に
沖縄戦も含め、特別の苦難を経験させられたのが沖縄のハンセン病患者であるといえます。『13歳…』ではコラム「沖縄のハンセン病」でその一端を書きましたが、もう少しお伝えしたいことがあります。
明治政府は、欧米列強に伍する「一等国」を目指し、すでにハンセン病を克服しつつあったヨーロッパに比して、日本では3万人以上も患者がいることを「恥」と考えていました。1907年、法律「癩予防ニ関スル件」をつくり、浮浪患者の隔離を始めます。この法律ができ、社会にはハンセン病は「恐るべき伝染性疾患」であるという認識が定着していきました。
熊本で回春病院を開設したイギリス人宣教師ハンナ・リデル(1855〜1932年)は、牧師であり自身も患者である青木恵哉(あおき・けいさい)を、沖縄に宣教に遣(つか)わしました。沖縄は人口比で患者数が多く、差別感が強かったために、患者たちは洞窟やバクチャー屋と呼ばれる掘立て小屋に集まって住んでいたのです。
沖縄でもハンセン病療養所を建設しようという動きがありましたが、嵐山(あらしやま)事件(1931〜32年)や屋部(やぶ)の焼き打ち事件(1935年)など、住民の暴力的な反対運動が続発していました。
青木牧師は、迫害から逃れるため、患者を連れて無人島のジャルマ島にたどり着きます。しかし、そこには水がなく、人が住める状態ではありません。やむなく安住の地を求めて屋我地島(やがじしま)(名護市)に15人の患者が上陸し、国頭(くにがみ)愛楽園(現在の沖縄愛楽園)をつくりました。
今年3月、私は沖縄愛楽園を訪ねました。そこには患者たちが上陸した海岸が保存されています。あまりに美しい珊瑚礁の海と、そこでさまよい、苦労した患者たちの存在という対比に、目がくらむ思いがしました。
屋部の焼き打ち事件などを受けて、沖縄では療養所への患者の収容が急速に進展します。そのベースにあったのが、「救癩(きゅうらい)」思想です。「気の毒な」ハンセン病患者を見つけて収容することが「救済」になるのだ、それこそが「正しい」という考え方です。キリスト教のハンセン病「救済」の基にこの考え方があるといわれます。
沖縄においてその中心となったのは、屋部の焼き打ち事件当時の長島愛生園(岡山)の医務課長で、1935年に開設された星塚敬愛園(鹿児島)の初代園長となった林文雄と、沖縄MTL(*3)でした。林は、沖縄のハンセン病患者は「宿るべき小舎もな」い、「奴隷以下」の、「獣の如」きものであるとして、「行くべき所を知らずして放浪より放浪にうつり病菌は無限に沖縄の幼少年の中に撒かれるのである。急務は彼らの隔離すべき場所を与へる事である」(『沖縄の癩者を救へ! ! 』沖縄MTL、1935年)と、浮浪患者だけでなく、全ての患者の隔離の必要性を訴えました。
*3 MTL キリスト者による「救癩」運動団体。MTLとはMission to Lepersの略。慰問、普及、隔離のための啓発活動を行った。Leperは英語でハンセン病のこと。2010年、国連総会で可決されたガイドラインで、この語の使用をやめるべきとされた。
そして林は1935年、沖縄と奄美で日本初の大規模な収容作戦を敢行しました。「沖縄救癩の開花したクライマックス」(上原信雄編『沖縄救癩史』沖縄らい予防協会、1964年)と呼ばれ、245人を一挙に収容。自宅の裏庭で生活する人までが家族から引き離され、柱にしがみついて抵抗したと証言する人もいます。
「救癩」思想が帰結するところの恐ろしさが分かります。その特徴について、『感染症と差別』(かもがわ出版、2022年)の著者で、ハンセン病に関する数々の裁判の弁護人を務める徳田靖之弁護士は、同書で次のように述べています。
「何故に『奴隷以下』とか『獣』という表現を用いたのか〔…〕ある崇高な行いを際立たせるために、その行いの対象とされた人たちを、意識して、ことさらに悲惨極まりない存在として描き出すことは、歴史上しばしば行われてきた。〔…〕対象とされる人たちを、一人ひとりの尊厳を有する人格の主体としての人間としてみないということである。対象を非人間化している点において、患者に対する偏見差別の陰湿な現れにすぎないのではないか」
★徳田靖之『感染症と差別』のnote はこちらから
中世ヨーロッパのハンセン病観がきわめて差別的であったことと、患者を貶(おとし)める、あるいは「気の毒な」存在とみることは、異なるようでつながっています。次の回では、「救癩」思想が戦争政策でどう使われたかをみていきます。
◉次回以降の連載予定
○ 戦争とハンセン病絶対隔離政策
○ 胎児・臓器標本の謎
○ 療養所のこれから
*本稿は、多摩住民自治研究所『緑の風』2023年9月号(vol.278)にも掲載されています。
◉『13歳から考えるハンセン病問題―差別のない社会をつくる』目次から
第1章 なぜハンセン病差別の歴史から学ぶのか
ハンセン病患者・家族が受けた激しい差別/ハンセン病とはどんな病気?/新型コロナ差別にハンセン病回復者からの懸念/過去に学び、今に生かす
第2章 ハンセン病の歴史と日本の隔離政策
日本史の中のハンセン病/世界史の中のハンセン病/日本のハンセン病政策/日本国憲法ができた後も
第3章 ハンセン病療養所はどんな場所か
ハンセン病療養所とは?/療養所内での生活/生きるよろこびを求めて/社会復帰と再入所
第4章 子どもたちとハンセン病
患者としての子どもたち/家族が療養所に入り、差別された子どもたち/生まれてくることができなかった子どもたち
第5章 2つの裁判と国の約束
あまりに遅かったらい予防法の廃止/人間回復を求める裁判/家族の被害を問う裁判
第6章 差別をなくすために何ができるか
裁判の後にも残る差別/菊池事件 裁判のやり直しを求めて/これからの療養所/ともに生きる主体者として学ぶ
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