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まふゆらしさって一体なんだろう?【プロセカ】
ついに、まふゆイベが来ましたね...
進級前最後のニーゴイベでもあるので、特段重要な内容となること間違いなしでしょう
そこで、ちょっと今までの流れを整理しつつ、「本当の自分(まふゆ)」ってなんだろう?ってことを考えてみたい、私なりの今後の展望を考えてみたいというのがこの記事の趣旨です。
⚠️ニーゴの過去イベ(~2023.5)のネタバレを含みます
イベストはバカ重い内容になる気がしますが、みなさん、ちゃんと生き残りましょうね...
前置きはこれくらいで!以下目次です
1.自分探しの現在地
めっちゃ雑にいうと、まふゆのストーリーは「自分探し」だと思います。何も感じなくなり、生きてる意味も分からなくなったまふゆが、明日をどのように生きるのか、(≒「誰として」生きるのか)というのはメインストーリーから一貫したテーマであり、奏も、「消えたい」と叫ぶまふゆを「救いたい」という目的で今まで動いてきているはずです。
現在までに、そのテーマに対する答え=「本当の自分」なるものは見つかっていませんが、一方で、まふゆが自然体でいられる瞬間が増えたのもまた事実でしょう。今節では、その変遷を大きく3つに分けて振り返ります。
1-a.「見つけてほしかった」自分
これは主にメインストーリーの話ですね。「『本当の自分』が見つからないなら消えるしかない」というまふゆに、奏が「それでもずっと、曲を作り続ける」と言ったことで、ならもう少し生きてみようとまふゆが思ったというのが要約になるでしょうか。ここでは、「まふゆを見つけ、本当の想いを気づかせること」が目標であるとされ、それに対する答えは「見つけてほしかったという想いを持っていたまふゆ」であったとされています。
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しかし、この段階では「本当の自分」に対する答えを出したとはいえないような気もします。「『本当の自分』を探し続ける自分」として存在が認められたということがここでの結論であり、それは自分探しの第1ステップであってゴールではないと思うからです(もっとも、この辺りの話は「まふゆにとって音楽とは何か」を考える上で大事だったりします。また、今までは誰にも「見つけてすらもらえなかった」という事実に注目することもできますね)
1-b.「あたたかい」気持ち
これが主なテーマとされたのは、「カーネーション・リコレクション」〜「この祭に 夕闇色も」辺りまでですね。また、この概念はそれ以降のストーリーにおいても、「冷たい↔あたたかい」という対立軸として何度も登場します。では、ここでまふゆがどのように変わっていったのか?という話ですが、一言でいうと、「まふゆが笑うようになった」ということでしょう。この流れについては、実際のストーリーを見た方が早そうです。
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から実感し、それを曲に込める奏
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→「あたたかさ=誰かへの想い」であることが
共有出来ている?
「あたたかさ」とは何かということについてですが、それは「誰かを想う気持ち」であると言ってしまっていいでしょう。意外にもはっきり言及がありますし、奏が「救いたい」という気持ちではなく、「ただ、笑ってほしい」という想いを(思い出の中の父と同じように)曲に込めたことがきっかけとなってそれが導かれたことからも、「誰かを想う気持ち = あたたかさ」であることは明らかだと思います。
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しっかり言及されています
また、この概念を使って、まふゆの母がまふゆのことを想っていないことが残酷なまでにはっきり描かれている(...冷たい雰囲気)のもまた事実ですね...
さらに、この概念(あたたかさ)がまふゆの「自分らしさ」に結びついているというのも一考の価値ありです。「まふゆはなぜ笑ったのか?」ということですね。ただこの話は重要な論点なので後半にとっておきます
1-c.「奏たちと音楽を続けたい」自分
最近のイベストはこの点が軸になっているといえますね。また、母親に対して自分の意見を通すことは出来なかったにしても、自分の気持ちを言えたというのは大きな進歩ですよね(私自身、当時は驚きながらストーリーを読んでました)。この辺りから、ニーゴの面々がまふゆの気持ちを感じとっているような描写もあります。また、私はそうは思わないのですが、これらの描写から、両親から認められていないだけで「本当の自分」は既に見つかっているのではないか?解釈することも可能でしょう。
いずれにしても、まふゆに大きな変化が起こっていることは間違いありません。まずは、「まふゆにとって音楽とは何か」から考えてみようと思います。
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この点を考えるにあたっては、奏とまふゆの出会いを振り返るのが一番の近道でしょう。一言でいえば、まふゆにとっての音楽は、自分を探すための(必要不可欠な)道具だと思います。この点は、前述の通り「『本当の自分』を探し続ける自分」としてまふゆ自身が存在していることにも合致しますし、ニーゴという環境に目を向けるのであれば、絶対的な味方がいる中で自分を探し続けられること以上の安心感はないといえるのもその根拠でしょう(まふゆの味方であり続けることは、本当は母親の役割な気もしますがねぇ...)。
さらにいってしまえば、音楽を通じて「誰かを想う気持ち = あたたかさ」で満ちた関わりを持つことは、自分を取り戻すために非常に大きな意義を持っているのではないでしょうか。
以上から音楽は、①「本当の自分を見つける」だけでなく、②「本当の自分を探し続ける」ためにも不可欠なものであるといえるでしょう。
よってまふゆにとって音楽は、明日を生きる可能性そのものである訳です。
このことを踏まえると、なぜまふゆがここまで食い下がったのか、なぜKAITOが「想いを殺す」なんて表現を使ったのかも分かりやすいですよね。もし私がまふゆだったとしたら、音楽を取り上げられた時点で死ぬしかないと思う気がします。この辺りについては、まふゆ母の話をする時にもう一度戻ってきます。
2.本当のまふゆらしさについて
ここからは個人的な感想がいっそう強くなるのですが、ではここで問われている「本当の自分」の核心とは何かということも少し考えておきたいと思います。私は「奏達と音楽をやりたい自分」は、まふゆの本心であることには間違いないが、「自分を探し続けられる自分」としての自己であり、「本当の自分」を完全に表現したものではないと考えています。
端的にいえば、奏たちと音楽を続けることが許された時に、まふゆが全ての感情を取り戻すかといえばそういうことではないだろうと思っているということですね。ここでは、まふゆが完全に「自分を取り戻した(見つけた)」と言える状態とは何か、それに対して欠けているものは何かについて考えたいと思います。
ただ、これに対する私の答えはシンプルです。私はまふゆという人間の本質にあるのは「誰かを想う気持ち、優しさ」であると考えています。このことは、看護師をなりたいと思ったことにもはっきり表れていると思います。また、まふゆが笑ったタイミングについても、多くは「誰かを想った時」であるといえるのではないでしょうか。
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女の子を看病する場面は作中屈指の名シーン
まふゆが誰かに感謝されるという経験は、「あたたかい気持ち」を生む体験として度々描写されています。このことから、「まふゆらしさ」の大きな部分を占めるものとして、「誰かの役に立ちたい気持ち」があるのではないかと私は感じてしまうのです。
しかし、このようなまふゆの性格に対する周囲の反応は厳しいものがあります。例えばまふゆ母は、このようなまふゆの優しさを、「いらないもの」として度々扱っていることが分かります。
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また、ニーゴの面々も、まふゆのことを「優しい人」として捉えることはほぼないんじゃないかと思います(素のまふゆ = 空気を読まずにズバズバ言う みたいな雰囲気もありますし)。ただこの点については、ニーゴの面々がまふゆの過去をほとんど知らないことも関係していると思いますので、仕方のない部分もあります(奏はまふゆが医者を目指していることすら、母親と会うまで知らなかった訳ですし)。
主にまふゆは「いい子」(が息苦しくなった人)として認識されている気がしますが(えななんは臆病なやつって思っているかも)、ではなぜまふゆは「いい子」として生きることを選んだのかという背景に隠れている、「優しい子」としてのまふゆについては誰も見つけていない気がするんですよね。
私は、「自分の気持ちより誰かの気持ちを優先してしまう」ことは、確かにまふゆが自分を見失った原因なのですが、だからといってそれは完全に否定すべきもの、直すべきものではなく、むしろまふゆらしさの一部であると思います。
まふゆは遊園地で母を悲しませないために「いい子」であり続けることを決めましたが、もしまふゆの性格がえななんだったら、速攻でお母さんのことは「あいつ」呼びですよ!
またこのことは、今のまふゆ自身のどうしようもなさにも影響しているといえる気がします。
まず、最近のストーリーの流れとしては、まふゆ母に対して、まふゆ自身が本当の気持ちを言うことを促す方向に向かっていると思います。そこで「お母さんは私のことを考えてくれている」と話すまふゆのことを、現実に向き合っていない人として扱ってしまうような描写もされてますが、私はその点について、果たしてまふゆは本当に逃げているだけなのだろうか?と思います。
まふゆの中に、お母さんを悲しませたくないと思う気持ちがもしあるのだとすれば、何も出来ないまふゆに対して新たな解釈を与えることが出来るような気がします。
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KAITOに言いたいが、声に出し切れない
レオニのほなちゃんの話とも関連する気がしますが、優しさって臆病さと表裏一体なんですよね(ちなみに2人はミクデミーで同じクラスです)。この辺りも考慮すると、なぜまふゆが(えななんがイライラする位に)自分を出せないのかということがいっそう理解出来る気がします。
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という言葉が出てくる
また"cautious"という単語は、単純な優しさよりは「用心深さ、慎重さ」を表す単語…まふゆらしさ?
もちろん「優しさ」とは他人の言うことを聞くことでは無いと思いますし、自分の気持ちを伝えないことには何も変わらないので、まふゆ母にガツンと何か言うことについては賛成です。ただ、まふゆにとってお母さんは、私のことを想ってくれていなかったとしても「お母さん」なのであり、(まふゆの性格的にも)すぐに縁を切ろうと思える存在でもないと思います。だから、どうかそのまふゆの「優しさ」は殺さないであげて欲しい、まふゆ母を悪者にする展開には終始しないで欲しいと切に願っています。
また、以上の考察から導かれる結論として、まふゆが「本当の自分」を見つけるためには「誰かを想う存在としての自分」を発見する必要があると思います。もう少しストーリーに沿った言い方をするならば、ありのままのまふゆが、「救われる」だけの存在ではなく、「誰かを救える」存在でもあることに気づくことが必要だと思います。ただ、ニーゴはお互いを想い合う気持ちによって繋がっているサークルでもあると思うので、特別なことは必要ないと思いますね。
3.まふゆの何が奪われているのか
では、逆の目線から、どのようにして「まふゆらしさ」は侵害され続けているのか、ということについても触れておきたいと思います。つまりまふゆ母の話ですね。
ただこれについての私なりの見解もシンプルです。まふゆ母の関わりについては色々と問題はありますが、結局の所「まふゆの人生に何が必要(不要)なのか」を勝手に決めていることに尽きると思います。
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ただ、このことについては今更かよという気もしますね。もう少し場面ごとに分けてみていきたいと思います。
まずは前述した「優しさ」についてです。前述の通り、まふゆ母はまふゆのことを「優しい子」と表現しながら、その優しさについて、必要なものと不要なものにはっきりと分けていることが読み取れます
不要な優しさ:クラスメイトや教師のお願いを聞く、誰とでも分け隔てなく仲良くなる
必要な優しさ:「いい子」であり続ける
以上は一例ですが、まとめてしまうとまふゆ母のまふゆへの関わりは、全てが「条件付きの優しさ」なんですよね。「いい子」であれば優しくされるという前提に支えられた関係は、まふゆにとって非常に侵襲的なものであるといえるでしょう。
シンセサイザーが捨てられた時に、えななんはまふゆに「本当にそれでいいの?(=本当の気持ちを言った方がいい)」と尋ねますが、それに対するまふゆ返事は、「怖いの...」でした。これは、単純に母親からの束縛に対する抗えなさを表しているともいえますが、より具体的に表現するならば、「本当の気持ちを言えば、『お前なんかいらない』と言われてしまうかもしれない」ことへの恐怖であるといえるのではないでしょうか。
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私は、両親にそういうことを言われた事はないのですが、想像するだけで胸が張り裂けそうになります。そのような「冷たさ」が、朝比奈家の生活のリアリティとしてあることは、改めて確認しておきたいと思います。
以上の恐怖を毎日突きつけられながら、看護師になりたい気持ちも、優しい気持ちも、皆と音楽をやりたい気持ちも捨てられ続ける人生を私は想像することができません。ただ、このことを踏まえた時には、母親に対して何も出来なかったまふゆのことを責める気にはなれないですし、まふゆ母のことを擁護することも出来ないですね。
※文章を書いている途中で明日(7/11)のイベントの予告が来ました。ついに、まふゆはお母さんに言うんですね... どのような訴えになるかははっきりとは想像出来ませんが、それが大きな覚悟の上におこなわれるものであるという事だけは胸に刻んでおきたいと思います。また、もしくはそれは「本当の自分」が死ぬ前の悲痛な叫びなのかもしれないですね(期末テストが...みたいな予告文も不穏ですし、先に母親から何か言われるのかもしれません)。いずれにせよ、明日を待つだけです。
さらに付け加えるなら、まふゆは母親から形式上の「自由」を与えられていることも束縛から逃れにくい要因でしょう。(母親の期待に応えるという前提の下で)まふゆ自身の決断として、医者を目指すこと、音楽を辞めることが語られていることで、それを否定しづらい状況が発生しているといえます。
なぜなら、それを否定することは過去の自分の否定でもあり、また決断に対する最終的な責任の帰属も母親ではなくまふゆ自身に返ってくるからです。「自分で言ったでしょ」ってことです。うーん、やり手ですねぇ(この野郎)
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4.「本当の自分」ってなんだろう?
以上、自分が言いたいことをまとめると、「まふゆらしさ ≒ 誰かを想う気持ち」であり、それが(あたたかさ・冷たさの)軸になっていることが今までのストーリーから推察できるということなのですが、(以上の前提に乗っかった場合に)ではなぜそれを「本当の自分」として見つけるのが難しいのか?ということについても考えておきたいと思います。
さらに、「本当の自分」とは何か?ということは、まふゆだけでなく今を生きる私達にとっても重要なテーマであると思います。皆さんはその問いにはっきりと答えられますか?私は無理です。
まず考えなければいけないことは、そもそも「本当の自分とは存在するものなのか」ということです。これに対する私なりの答えは、「『本当の自分』は存在するが、それは個人の中に存在するのではなく、関係の中に存在する」というものです。
少し想像してみて欲しいのですが、私たちが誰もいない宇宙に1人取り残されたとして、そこで「本当の自分」を見つけることは果たして可能でしょうか?私は難しいと思います。私は、自分らしさを発見する瞬間って「誰かの役に立った時」とか「他人とは違う考え方をする自分を見つけた時」というように、他者との関係の中で自身を振り返った時だと思うんですよね。
よって私は、まふゆ達が、まふゆの中に限定して「本当の自分」を探す限り、それは見つけられないのではないかと感じてしまいます。もっとまふゆの誰かに対する関わりについて、目を向けてあげて欲しいと思いますし、それこそが「あたたかさ」の鍵だろうとも思います。
さらにいえば、「本当に『本当の自分』を見つけなければ生きていけないのか?」という問いも立てられると思います(ややこしいですが)。
事実として、メインストーリーでは前述したとおり、「自分を探し続ける自分」を認めてもらえることを通じて、まだ「本当の自分」は分からないがそれでも、明日を生きようと思えている訳です。
まふゆだけでなく、私自身も含めた全員に対するメッセージにはなりますが、「本当の自分」の形は一つじゃないと思いますし、理想としては、「本当の自分が見つからなくても前向きに生きていける」世界が出来てくれるといいと思います。
番外編:まふゆ母は悪魔か?
この点については、ここ一年位ずっと議論されてきた内容であると思いますので、これについても簡単に触れておきますね。正直、今までのストーリーでの描かれ方は100%悪役ですし、許せない人もたくさんいて然るべきだと思います。より正確な言い方をするのであれば、「人間として描かれていない」という感じですかね。
奏との話し合いの時の会話の噛み合わなさは、私にとっては恐怖そのものでした。例えばこの前のビビバスイベントの大河さんなどについては、賛否両論はありながらも、その行動に含められた想いについては疑う余地のないものがあったと思います。でも(少なくとも現在の)まふゆ母にはそれが無いんですよね。まるで医者育成ロボットみたいです。よって、事実としてまふゆ母の行いを許すことは出来ないが、人物に対しての評価を下せる段階にはまだないというのが私の正直な気持ちですかね。
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(=まふゆ自身を想う気持ちのなさ)に愕然とする奏
この点については、今後のストーリー展開を待つ必要があるかもですね。少なくとも幼少期のまふゆは本心から笑えていた訳ですし、何かの出来事をきっかけとして、現在の"毒親"としてのまふゆ母が構築されていったのかもしれません
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また、もう少し話を広げた時に、「これは虐待なのか?」「まふゆ母の行いはどの側面から見ても許されないことなのか?」という問いが出てくると思いますが、それについては、私自身の人間的な力不足もあってはっきり答えられないですね... というか分からないです。
個人的には、今のまふゆ母にまふゆを想う気持ちは無いと思っていますが、そもそも「親は子どもを無条件で愛さなければならない」という前提がかなり厳しいものであるとも感じちゃうんですよね。
私はすごい幸運もあって、今までの人生を歩んでくることが出来ましたが、それが当たり前ではないだろうということも理解したいと思います。その上でまふゆ母は、あれこれまふゆのために手を尽くしたりと、行動レベルでは親としての責任を果たしていると思うんですよね。まふゆ母に問題があると言うのは簡単ですが、じゃあこれ以上まふゆ母に何か求めることが出来るのか?ということについては少し疑問ですね。ただ、この点についてはすごく難しい問題だと思います。
おわりに
明日が怖い!!!!!!!!!
まふゆには本当に幸せになって欲しいです。
運営さん、それだけはお願いします〜