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絵名から学べること:「消えたい人」の心理とその対応について【プロセカ考察】

皆さん、こんにちは!
いや〜、今回の絵名バナー、めちゃめちゃ良かったですね。プロセカ運営、やってくれたなという感じです。個人的には、絵名と瑞希がようやく「友達」になれてよかったなぁと、ただそう思っています。

ただ私は、公式にこれだけ良いストーリーをつくってもらったのだから、「良い話だったなぁ」で終わらせてはいけないとも、同時に思うんですよね。
二人から得たものを、現実の人間関係に活かしていきたい訳です。

ちなみに今回は、「(性的)マイノリティに対してどう関わるか」みたいな話では全くありません。
(そもそも絵名バナーですしね)

なお、マイノリティの話については前のnote(荊棘イベ感想)で書き切りましたので、興味のある方はそちらもご参照ください。

※手前味噌ですが、最後以外はかなり今回のイベストの内容を当てていると思います。特に「6. 瑞希がなりたかった『友達』とは?」については読んでほしいですね


という訳で今回は、もう少しストーリーの内容を一般化して、絵名側の人間に果たして何ができるのかを考えたいと思います。
具体的には、「『消えたい、死にたい』と思っている人に対して、私たちは何ができるのか?」ということを論じていきます。

なぜなら、そういった場合において私たちは、今回の絵名と同じように、「選択を間違ったら、もう二度と会えないかもしれない」状況に追い込まれるからです。

ここで間違ったらもう会えない。それは自殺の文脈にも近しい緊張感をともなう


また、もしかしたら、「そんなこと、めったに起こらない」と思う方もいるかもしれませんが、決してそんなことはありません。
過去の調査によると、一般大学生のうち、「これまでに死にたいと思ったことがある」と回答した人は39.2%と、全体の約4割に上ります(足立ら, 2014)。
つまり、そこそこの人数の人が、そのような悩みを打ち明けずに、「生きたい人間」に擬態して日常生活を送っている訳です。

このセリフに共感した人は、
決して少なくないと思われる

では、この「擬態」を見破ってしまった時に私たちは、何ができるというのでしょうか。
あなたの周りにいる友達、また家族が死のうとしている。そんなことに気づいてしまったら、まず動揺することは避けられないはずです。

また、当たり前のことを聞くかもしれませんが、その時なぜ私たちは動揺するのでしょうか?
この理由について中森(2022)は、特に家族や友達といった、親密な関係におけるコミュニケーションは驚くほどに、「私たちが生き続けること」を前提として成り立っていることを指摘しています。

つまり、「来月、旅行いこうね」「就職、どうするの?」といった言葉は、目の前の人がこの先も生きているということを当たり前と思っているから出てくるセリフな訳ですね。

よって、「消えたい、死にたい」という言葉は、私たちが持つその当たり前なコミュニケーションを、破壊する作用があるのです。
(そのために私たちは動揺するのだという訳です)

そして、だからこそ「死にたい」と思っている人は、このような「生きることが前提となる会話」を振られる度に、反応に困ります。
「なんて返すのが正解なんだろう」、「消えたい僕が、生きたい君の隣にいていいのかな」、なんて不安になるのです。

つまり、「生きたい人(当たり前側)」と「死にたい人」の前提の違いが、日常的なコミュニケーションに齟齬を生じさせており、
さらにその齟齬によって死にたい人は、関係の構築が(親密になるほど)困難になる訳です

...と、ここまでの指摘で、今回のイベント内容(瑞希の悩み)と自殺問題の共通する部分については、ある程度伝わっていたら嬉しいです。

今回は、そんなセンシティブな、でもいつ巻き込まれてもおかしくない、私たちのコミュニケーションの問題について、深入りしていきます。


本noteは、大まかには三部構成を取ります。

まずは、
①絵名と瑞希が高架下でしたやり取りは、一体何だったのか?
ということについて、改めておさらいをします。
(だいたいイベスト感想です)

なお、「絵名が瑞希に向き合っていた」ということについては、他の人がたくさん語っていると思うので、このパートではもう少し細かい部分に注目したいと思います。

例えば絵名は、「変わってない」とは言いましたが、(瑞希の悩みについて)考えない」とは言っていない訳で、そこに絶妙なバランス感覚がある訳です。
つまり絵名は、決してただ感情をぶつけた訳ではないのです。その点について、まずはまとめていきます。

次の章で書くのは、②自殺の問題についてです。このままだと、「瑞希の問題を、勝手に自殺にこじつけている」と思われてもおかしくないので、両者の関連については、章を使ってさらに丁寧に論じようと思います。
また、これらの検討にあたっては、具体的にはロイ・バウマイスターの「自己逃避としての自殺」理論(Bering, 2018 鈴木訳 2021)に基づいて、瑞希の行動を評価する、ということをしていきます。

もう、理論の名前から瑞希っぽいですよね。
そう、この後説明しますが両者には、驚くほどの一致が見られるのです。

逃げ切るって、どこに?

私は、今回のイベスト後半が高架下で展開しているのを見て、率直に「死の匂い」を感じました。瑞希が逃げた先が、線路の向こう側じゃなくて良かった、ただただそう思うのです。

また、詳しくはこの後説明しますが瑞希は、ロイの理論に照らし合わせれば、そこそこ命が危険な状況にいたと思います。

何度も繰り返しになりますが、今回はあまりマイノリティの話はしません。

むしろ今回皆さんには、
瑞希に向けている「マイノリティのレンズ」を少し外してもらった上で、
「自分って消えたくなったことはないだろうか?」「消えたい人に対して、何ができるのか?」ということを考えてほしいですね。

つまり、絵名と瑞希のことを、「特別な問題」ではなく、より身近な話として感じてほしいのです。


そして最後に①、②をまとめ、
③絵名の言葉のキーポイントと、私たちに真似できること
について議論していきたいと思います。
具体的には、絵名がどれだけ難しいことを成し遂げたのかという、凄みについて示したいと思います。

多分私たちは、全員が絵名ほど強い人間ではないと思いますし、そもそも対人関係なんて、ほとんど一般化できません。
という訳で、私たちは絵名とも瑞希とも違う人間で、必ずしもこのストーリーをなぞる必要もないのですが、しかし学べる部分も、必ずあるはずです。

こんなことを私が言っていいのかという感じですが、皆さんにとって有益な情報を少しでも提供できるように努めますので、何とぞよろしくお願いします

※ちなみに私は、生まれながらに障害というマイノリティ性がある上、自殺を本気で考えた(治療を受けた?)経験があり、その立場を踏まえながら、このnoteを書いています。
別に私がしたいのは自分語りではないので、これより先に身の上話が出てくることはないですが、死にたい人の気持ちについて、「まるで分かったかのようなことを」話してしまっていたら申し訳ないです。
また、逆に絵名側の気持ちについては、あまり寄り添えていなかったらすみません。


⚠️本noteの内容は、イベントストーリーや、それに付随するサイドストーリーの一部ネタバレを含みます

前置きから、全体的にアクセル全開となってしまい、大変失礼しました。それでは、以下目次です!!!!


1. 一体あの高架下では、何が起こっていたのか?


最初のパートは、本イベストの要約です。
結末としては、皆がこれからもずっと一緒にいられそうで良かったね、という話なのですが、
実はそれは、絵名と瑞希が「約束をした」からではなく、むしろ互いに「約束をしなかった」から達成されたものであるということについて、皆さんは気づいたでしょうか。

①「約束をしない」という決断と、傷つけあうこと

と、いきなり言われても困ると思いますので、2章の前半では、これらの「約束」に対する絵名と瑞希の態度について説明していきます。

まず、ここでの約束とは、例えば絵名にとっては「気にしないこと」「変わらないこと」、瑞希にとっては「自分がいちゃダメなんて思わないこと」を指します。
※絵名は、「変わってない」とは言いましたが、「変わらない」とは言ってません

例えば荊棘イベでは、瑞希から、皆の優しさ(気にしないようにしてくれること)が耐えられないという話がありましたが、
つまり二人は、それらの課題について、正面から解決する方法(気にしないようにする方法)を選ばなかったということです。

さらに、以上の内容についてストーリーを具体的におさらいすると、
絵名は瑞希に、どうしても「瑞希のことを考えちゃうこと」を許してもらったのですし、
瑞希は絵名に、「自分の『バカな考え』が治らなくても、皆で一緒にいること」を許してもらったのです。
(≒これらの問題は解決しなくても一緒にいれるようになりました)
※バカな考え=友達でいていいとかダメだとか

高架下での会話においては、「自分は全然気にならないよ」なんて綺麗事の約束は全く出てきません。
むしろ二人は、お互いの本音、「どうしようもなく変えられない部分」を共有しているのです。

私の気持ちは、ずっと変えられない
友達でいていいのか、迷っている

このようなやり取りは、どちらかと言えばお互いを傷つけあう行為だと思います。本当の自分を相手に曝け出さなきゃいけない上、相手の本音にも向き合わなきゃいけないからです。

また、ここで私はあえて「傷つけあう」という表現を用いましたが、今回の絵名のカード名が「傷だらけになったとしても」であることからも分かるように、自分は今回のストーリー内では特に、お互いの「傷」が強調されていたと思います。

瑞希に手を振り払われ、悲鳴を上げる絵名
自身が“男である”ために絵名を過剰に傷つけてしまう、そんな残酷なシーン
絵名は絵名で、自分の優しさが瑞希を追い詰めることを理解している
この辺りのセリフは、「相手を傷つけないように」という気遣いのもとでは出てこない、お互いの本音


つまりここで二人は、互いのことを気にしないのではなく、むしろ「気にしあうこと」、すなわちお互いが傷つけあうことを受け入れたからこそ、一緒にいられるようになったのではないかと自分は考えます。
(約束をしなかった、というのはそういう意味です)

まずはこの点について、皆さんに伝えられたらと思います。

ちなみに確認ですが、瑞希はまだ、「自分が皆と友達でいていい」とは思えていないんですよね。まだ、「思えるようになりたい」段階なんです。

つまり、まだ思えていない

つまり今は、

瑞希「まだ皆と一緒に居ていいって心から思えないし、そのことで傷ついたり、傷つけたりしちゃうかもしれないけど、やっぱり近くにいていいですか?」

絵名「いいよ」
(↑絵名の懐深すぎるだろ)

っていう、少し特殊な状態なんです。

繰り返しになりますがまとめると、
二人は、お互いが傷つくことを許容できたから、つまり、これからどんな苦しみがあったとしても、皆と会えないよりはマシだという価値観を共有できたから、ニーゴの仲間として再集合することができたという訳ですね。
(前のnoteの6章も参照してください)

「もう居なくならない」とは約束していないが、逆にそう正直に言って大丈夫な関係になったともいえる。


さらに余談にですが、個人的には、今回のイベストや絵名のカード名から、ワールドリンクイベント内で出てきた「絵名=ハリネズミ」という特殊なモチーフについては、ある程度回収されたと考えています。

つまり言いたいのは、絵名はまさしく「ハリネズミのジレンマ」という言葉で表されるように、瑞希に近づきたいからこそ、「傷ついてしまう、傷つけてしまう」という悩みを抱えていたんだと思います。

「ハリネズミのジレンマ」とは、「近づきたいのに、お互いを傷つけあってしまうがために近づくことができない」という心の葛藤のこと。距離が近くなればなるほどに、お互いの価値観の違いに悩んだり、つい不満を口にしてケンカしてしまったりしますよね。こうした人間関係で生まれるもどかしさを「ハリネズミのジレンマ」と言います。

https://oggi.jp/6919348


まあ、それは本筋ではないです。とにかく、それを解決できてよかったね、「友達」になれてよかったねという話です。

②「生きたさ」と「消えたさ」の断絶

ここまでで既に、絵名の懐の深さ、凄さについては何となく伝わったかもしれません。
(まだまだこんなもんじゃないですが)

しかし改めてにはなりますが、瑞希はまだ、「自分が皆と友達でいていい」とは完全に思えていない訳です。
このことについては、どういうことなのかもう少し説明するべきだと思うので、この章の後半の内容として深掘ろうと思います。

ここでは具体例として、絵名が瑞希の発言に対して、「バカじゃないの?これくらいは分かってよ」と言い返した場面について取り上げます。

以上のやり取りは、絵名にとっては当たり前のこと(“これくらい“のこと)が、瑞希にとっては当たり前じゃないということを示す、いい材料だと思うのです。

まず、ここでの反応から察するに絵名は、「友達でいていい」とか、これまでの人生で1ミリも考えたことがなかったのでしょう。

そして、
「バカじゃないの?」「自分は瑞希とずっと友達でいたいよ、そんな簡単なことくらい分かってよ」
と瑞希に強い言葉を投げかけ、涙する訳です。

さらに絵名が言いたいことは、結局はこのことに集約されると思います。「瑞希とは友達なんだ」という気持ちは、絵名の中で少しも嘘のない、強い願いである訳ですね。

しかし瑞希は、絵名のこれだけの言葉を聞いてもすぐには考えを変えなかったですし、さらには最終局面でも、「いていいと思いたい」レベルの態度に留まっているのです。

絵名の「友達だ」という話を聞いても、
一度目はこの反応


では、どうして絵名の気持ちは、こんなにも瑞希に伝わりづらいのでしょうか。
結論からいうとそれは、瑞希がこれまでの人生で常に、「周りを困らせ、親に迷惑をかけ、傷つき続ける自分」に対して、「消えた方がいいんじゃないか」という考えを持っていたからです。
(前のnote2、4、5章を参照)

さらに、後で再び深めますが、ここにはやはり、「生きたい人」と「消えたい人」の前提の違いが読み取れるように思えます。

つまり、当たり前にこの先も生きていける人(絵名たち)にとっては、「ずっと一緒にいたい」という言葉も簡単に口に出来てしまいますが、瑞希にとってはそうじゃないということです。

むしろ、絵名からずっと一緒にいたいと言われた時に瑞希は、「これらの関係を持つことで、むしろ『消えにくく』なってしまうじゃないか(生き地獄に閉じ込められてしまうじゃないか)」とすら考えていたように、私は感じてしまうのです。

このことを知り絵名は、読者がはっきりと分かるくらいに愕然とします。

絵名が最も動揺した(感情的になった)ポイント

だってそうですよね。上の「消える」を「死ぬ」に置き換えてください。また繰り返しますが、そもそも「いていい」なんて考え方自体が、絵名の中になかったのです。

と考えれば、そりゃ絵名からすれば、「バカじゃないの?分かってよ」と言いたくなりますよね

ただ、瑞希に関してもう少しだけ補足しますが、決して瑞希は「友達が欲しくない」と思ってる訳ではないんですよね
(むしろ、ずっと対等な友達が欲しかった)

これからも=絵名ともうまくできない

ちなみにこれらの発言は、瑞希は今までの人生において友達がいなかったと言っているのとほぼ同義です。つまり、杏とかに対してさえ、「後ろめたくない」とまではずっと思えなかったということです。

類だからこそ言える、的確な表現

これらのことを踏まえると、「絵名と友達になる」ということは、傍からみたらすごく簡単なようにも思えますが、瑞希からするとすごくハードルが高いことなのが分かりますね。

そして、当時の瑞希の状況を改めてまとめ直すと、絵名が瑞希を連れ戻すのって、本当に難しいことだったと感じませんか?
私は普通に考えて、無理ゲーだとすら思えてしまいます。

そんな偉業を、絵名は成し遂げたのです。

③二人の会話のポイントまとめ

この章は、ひとまずここで終わりです。
少し消化不良かもしれませんが、絵名の対応の素晴らしさについては第3章で扱うつもりですので、あと少しだけお待ちください

この章で、ストーリーについておさらいしておきたい事は、以下の4点です。

・絵名は、「友達でいていいのか」という瑞希の言葉を聞いて愕然とする

・そこには、絵名の「生きる論理」(当たり前にずっと一緒にいたいし、大事だから気にしたい)と、瑞希の「消える(≒死ぬ)論理」(皆から優しくされる度に傷つくし、自分はいちゃダメなんだと思う)の対立がある

・これらの対立関係は、簡単には越えられない

・だからこそ絵名と瑞希は、互いに約束をしないこと、つまり「立場の違いに傷つくことがあったとしても、一緒にいること」を選んだ

いやー、こう考えると全く、「瑞希解決編」だなんて言えないですよね。まだ問題は残っているというか、むしろ試練はここから、という気がしますね。

多分ですが、ここがようやくスタートラインです。ニーゴの皆がずっと一緒にいれるように、1ファンとして、陰ながら応援しています。

2. 「自己逃避としての自殺」理論から瑞希を説明する

では次は、ロイ・バウマイスターの自殺理論に基づき、ストーリー内で描写された瑞希の行動について説明していきます。
個人的にはこの章を通じて、「消えたい(≒死にたい)人」の思考や行動の傾向について、少しでも分かりやすく記述できたらよいなと思います。

この理論の特徴は、自殺に至るまでのプロセスを6つの段階で説明していることにあります。
決して後戻り出来ない訳では無いが、一歩進むごとに、自殺というゴールが近くなるといった感じだと思ってください。
では、これらの段階について、ひとつずつ説明していきます。

①期待値に届かないこと

ロイは、単に不幸であることというよりは、「幸福から不幸への落差」によって自殺が動機づけられると説明しています。
(ここはまだ第一段階なので、ジャブという感じですね)

また、この段階について瑞希に当てはめるなら、
もし仮に、絵名が瑞希にとってどうでもいい存在だったなら、ここまで動揺はしていなかっただろうということになるでしょう。

おさらいですが、瑞希にとってニーゴの皆は、「ようやく見つけた、来年も一緒にいたい仲間」だし、その中で特に絵名は「ずっとなりたかった友達」でもあったのですね。

そのため瑞希は、男子生徒Aの陰口を聞いても消えたくはならないでしょうが、ニーゴの皆との関係が変わってしまうことは耐えられないんです。
(幸福から不幸への落差が大きいから)

まだ、こんなの当たり前でしょ、というレベルの話ではありますが、
まずは、瑞希にとってどれだけ大事だったものが、一度壊れてしまったのか、そんなことに思いを馳せながら次のステップに進みたいと思います。

②自己への帰属

第一段階では幸福から不幸への落差が自殺の原因になると述べましたが、しかし、挫折があったからといって、常に死にたくなるかと言われたらそうではありません。
ロイは、これらの状況に対して「自分を責めること」が、自殺への確実な一歩であると説明しています。

なお、これらの内容(=自責)は、荊棘イベ最後の「自業自得だな」という発言に象徴されるように、瑞希から繰り返し語られてきたと思います。
瑞希はずっと周りから傷つけられてきた「被害者」であるはずなのに、何かにつけて自分を責めることをやめられないのです。

瑞希は絵名に、謝ってばかり

また、ここでロイが論じる自責は、単に失敗を自分のせいだと思うことにとどまりません。

なんて自分は普通の人と比べて醜い心をしているんだろう。自分はどうしようもない人間だ
と感じることが、自殺者の大きな特徴なのです。

さらにこの自責は、自身が「死にたい」と思っているだけでますます強化されていきます。
「普通の人はこんなこと考えないはずなのに、どうして自分は死にたいなんて思っているのだろう。頭がおかしいのかな
なんて思えてくるからです。

ここで特に指摘しておくべきは、自殺者の心の中で、「普通の人(他人)」と自分が、どんどん対照的な存在として認識されていくということです。

これらの自責については、いちいち挙げるとキリがないので前のnoteを見てほしいのですが、今回のストーリーでいえばこのシーンを挙げることが出来ると思います。

これらの発言から、まず瑞希の心の中には「優しさを受け止めるのが普通だ」という前提があることが分かります。
そして瑞希は、そんなことすらもできないどうしようもない人間なんだと、自分のことを考えてしまう訳です。

また、だからこそ瑞希は、ニーゴの皆(普通の人)と自分の間に線を引きます。
「自分は皆と一緒にいてはいけないんじゃないか」と思うのですし、
それは、自身の人格的な醜さゆえに、皆とは対等になれないと瑞希が感じていることもまた意味しています。

と、このような感じで、自責のプロセスが進行していく中で、周りの人間と比較して自身が異常だという認知もまた強まっていきます。

これらは、簡単な言葉で表現するならば「認知の歪み」です。必ずしも、現実に即したものではありません。
ただ、簡単に病気(=治療対象)だとみなす前に皆さんには、「このような思考の方法で毎日生きるのはしんどそうだぞ」ということについて、少しでも考えてみて欲しいですね。

まだまだ自殺に向かうプロセスは続きます。

③自意識の高まり

ここまでの2段階で、①これまでの幸せが崩れ、②自分がどうしようもない人間だと考えてしまう過程について説明しました。

また、このような認知が当事者に耐え難い苦痛をもたらすことは、説明不要でしょう。

しかしこのような苦痛に相反するように当事者は、自殺へのプロセスが進めば進むほど「自分のことしか考えられなくなる」訳です。
(それが、「自意識の高まり」です)

このことは瑞希の行動にもしっかり表れていると思います。まず私は、「皆の前から姿を消す」という瑞希の対処自体が、自分のことしか考えられなくなった証拠だと思います。

大前提なのですが、普通に考えて、急にどこにも行かなくなったらより一層「周りに気を遣わせてしまう」はずなのです。
つまり、学校の人(他人)に対するめんどくさい説明事項が増えてしまいます。
これらは、いつもの瑞希のバランス感覚があったとしたら、選ばれる行動じゃないと、私は思います。

でも瑞希にとって外に出る(皆と会う)ことは、「無理」だし、「杏からこう聞かれたら?」「絵名にこう思われたら?」ということばかりを考えてしまうのです。

自分がどう思われるかばかり気にした結果、吐きそうになってしまう

その結果として瑞希は数日間、日常生活すら、まともに送れない状態にいた訳ですね。

これらは突き放した言い方をすれば「自意識過剰」ですが、瑞希はもう「自殺に向かうプロセス」にがっつり乗っかってしまっているので、「自分のことを考えたくないのに、そうするのをやめられない」のです。

ここでプロセスは折り返しです。次の段階に進みましょう

④否定的感情

この段階でロイは、自殺者がなぜ死のうとするのかについての明快な説明をしています。

ここが、「自己逃避としての自殺」理論の大枠です。結論から言うと自殺者は、死ぬのが怖くないから自殺する訳では決してありません。
結局のところ自殺者は、死ぬのは怖いが、「だめな自分について考えさせられ続けること」はもっともっと恐ろしくて苦しいので、「自殺して自意識を手放すしかない」と決めるのだと、ロイは説明します。
(例えるなら、燃え盛るビルから飛び降りるイメージです。もちろん飛び降りるのは怖いが、このまま燃えてしまうのもまた怖いということですね)

この事について瑞希の言葉を借りるなら、「どっちもイヤ」なのです。つまり消えることも、消えないことも、どちらも怖くて仕方がないのです。


さらに補足ですが、先程も述べたように「自分がどうしようもない人間だと考え続けること」はとてつもない苦痛です。よって、様々な方法で自意識からの逃避が図られます。
(これが、「自己逃避としての自殺」です)

これらの逃避について具体例を挙げるなら、アルコールや薬物への依存、さらにはODです。
つまりこれらの行動は、「どうしようもない自分を忘れるための儀式」として説明可能なのです。

といっても、これらの方法は、自殺に比べれば対処療法でしかなく、残念ながらいつかは目が覚めてしまうのですけどね。

さあ、段々重苦しくなってきました。次のステップからは、よりリアルな自殺者の認知過程に踏み込みます。あと少しです。

⑤認知的解体

この段階までくると、もはや自殺者の感覚、体験は、私たちとかけ離れたものになります。知覚する現実が、全く変わってしまうのです。

第一に起こるのは、「時間感覚の変化」です。
具体的には、自殺直前の人は、1分1秒が非常にゆっくり感じられ、先のことが考えられなくなります。その間ずっと、自責の念が激しく自分を攻撃します。
それは、「生命が、ゆっくりと滴り落ちていく」感覚らしいです。そして実は、瑞希にも同じ変化が起きているんですね。

例えばこのシーン。皆さんには後でもう一度見返して欲しいのですが、ここの瑞希、歩くの遅すぎませんか?喋るのが遅すぎませんか?

このシーンはマジでもう1回確認して!

そうですね、ここの瑞希はまさしく時間感覚の変化、すなわち認知的解体を経験していたと考えられます。そう考えると、瑞希ってだいぶ限界だったんだなって、あらためて分かりますよね。

また、この時のことについて瑞希は、「生きてるかも分からないゾンビ」だと言っていますが、これもまさしく認知的解体のことですね。命が滴り落ちる、「無限にも思える現在」に囚われ続けることは、まさしくゾンビのような体験でしょう

※瑞希のサイストから一部抜粋です

さらにロイは、この段階にいる人は、現在の自分から少しでも逃れるために、どうでもいい作業に没頭することが多いとも論じています。

そうですね。瑞希にとってのどうでもいい作業は、「アニメ鑑賞」です。

ここまで考えると、瑞希の一挙手一投足が、自殺者のそれと一致していることが分かると思います。

はっきり言って、怖いくらいに重なってます。また、つまり公式は、細部にいたるまでストーリーを作りこんでいるということも、同時に分かりますね。
というか、むしろそれが怖いですね。公式の、消えたい気持ちに対する解像度が高すぎます。

⑥抑制解除

遂に、これが自殺前の最後の段階です。あとは、自殺行動への恐怖に慣れてしまえば、終わりという訳ですね。

瑞希は、ようやくここで踏みとどまることが出来ました。具体的には、「消える勇気もない」とストーリー内で発言しています。

ただ、瑞希がもう少し入念に「消える準備、練習」をしていたなら、事態はこうではなかったかもしれません。
絵名と瑞希は、再び会うことすら出来なかったかもしれないのです。

個人的な最初の感想は、「全年齢対象のゲームで、普通ここまで書くか?」という驚きでした。

自殺という言葉を使わずに、ここまで自殺者(消えたい人)の心理を言い表すことができるなんて、はっきり言って脱帽です。
(前noteの話にはなるが、マイノリティの心理についても解像度が高すぎる)

...まあ、もう過ぎた話ということにしておきましょう。とにかく、ニーゴの皆が再び集まれてよかったです!笑

ちなみに、個人的な観点から瑞希が死ななかったポイントを挙げるなら、このシーンじゃないかなと思いますね。

Dear Ribbonの新作を見て一言

あくまで個人の感想ですが、瑞希にとって、「カワイイものが好き」だということは、もちろん辛い人生の原因にもなりましたが、同時に瑞希の生きる希望、心の支えでもあったんだと思います。

カワイイものへの憧れがあったからこそ、瑞希は死ななかったし、絵名とも再会することができた。少なくとも自分はそう思いますね。

3. 絵名の対応の素晴らしさはどこにある?

ついに、ここまで来ましたね。なんだかずっと、重たい話をし過ぎていてすみません。ここからはもう少し実践的な話です。

第1章で、
①絵名は瑞希に、「友達でいたい」という本心を伝えた
②下手な綺麗事よりは、お互い傷つけあったとしても本音を伝えることを優先した
③結局、「自分は変えられない」。でも、それでもいいから一緒にいたいと二人が思った

という大枠については書きましたので、この章ではその間、絵名の細かい言動が持つ意味について語っていきます。
そしてそれが、第2章で書いた「自殺へ向かうプロセスの何に対して効果的だったのか」についても、同時に考えますね。

あと少しです。それでは本題に入ります!

①嘘をつかないということ

まず絵名が瑞希を連れ戻すためには、「自分の言葉が本心であること」を示さなければなりませんでした。

この点についていえば、無理な約束をしなかったということは、改めての指摘にはなりますが瑞希にとっては良かったですね。

瑞希にとって嫌な話からし始める絵名

本当は、絵名かこの内容から話を切り出すのはかなりリスキーな気がします。瑞希がすぐに逃げてしまうかもしれないからです。
でも絵名は、この話をするのをやめられませんでした。絵名は嘘をつかないというよりは、「嘘をつけない」と言った方が適切かもしれません。

さらに絵名が嘘をついてないという点については、はっきり言って高架下でのやり取りが全てじゃありません。
今までの行動の積み重ねによって、瑞希自身の絵名に対する信頼が高まっていたからこそ、今回は何とかなったのです。

ボクのあしあと キミのゆくさき第8話より

この点はやはり、普段からナイトコードで隠し事をしない(ベラベラ喋る)、絵名だったからこそなせる業ですね笑
とにかく、絵名が長い間瑞希のことを想い続けたのが、そのまま報われた形です(本当によかった!)。

②変わってないということ

また、最終的に瑞希の気持ちを動かしたのは、絵名の「変わってない」という言葉でした。
個人的には、ここが一番の絵名の功績ポイントですね。
「瑞希と友達でいたい」ことに加えて「私は変わってない」ことが伝わったからこそ、瑞希は皆と一緒にいることを選んでくれた訳です。

ここ、マジで絵名ナイス

この話に関わってもまた、過去のイベストに戻ります。具体的には、「本当に絵名は変わってないないのか?」ということを確かめてみましょう。

困ってたら、力になりたい
それは変わらない
ずっと一緒にいる

これ、どうですか?今回の絵名の態度と全然変わってなくないですか?
驚くべきは、「友達でいたい」ということだけじゃなく、「暗い顔をしてたら、力になりたい」ということについても全く変わってないんですね。
しかも、この時の絵名のセリフ自体に「変わらない」という言葉が使われている訳です。
瑞希だって、ここまで前と同じことを言われたら、「絵名は変わっていないんだ」って、信じざるを得ないですよね。

そうです。結局瑞希を連れ戻すことができたのは、高架下での発言ではなくて、これまでの積み重ねなのです。

このことは、私たちが「死にたい人」と相対する時にも役に立つ視点だと思います。
確かに、いきなり「死にたい・消えたい」と言われたら当然びっくりしますが、そこで初めて優しくなっても意味がないのです。
(それは、瑞希の嫌いな優しさです)

瑞希は、絵名が自分の性別を知る前からずっと自分に優しくしてくれていたことに気づいたからこそ、ニーゴに残ることを選んだのだと、私は思います。

とはいえ私は、死にたい人を目の前にした時に「変わるな」とは言いません。絵名も、「変わってない」とは言いましたが、「これからも変わらない」とは言ってません。
ただ大事なのは、普段からその人に優しくしてあげれていたかなんじゃないかなぁと、私は思うのです。

この点については後悔先に立たずなので、自分も日々の言動を気をつけたいですね。

ちなみにですが、「絵名の変わってなさ」に関していえば、このセリフもすごく良いですよね。

「いいのかなあ?」と悩む瑞希に一言

つまり、もう止めないと絵名は言ってましたが、結局のところ絵名は、まだまだ瑞稀のために走り回る準備がある訳です。
やはりこれもまた、「絵名の変わってなさ」を表す重要な一側面ですね。こういう表現を使うのが妥当かは分かりませんが、絵名って本当に強く、優しくてて、カッコいい人間だなって思います。

③これらの言動が、自殺に向かうプロセスのどこを変えたのか?

それでは最後に、もう少しだけお勉強しましょう。具体的には、第2章(自殺理論)との関連についてです。

結論からいえば、ロイの理論に照らし合わせて、重要だったのは絵名の以下の発言です。
より具体的にいえば、絵名が「私は変わってない」と言っただけじゃなく、「変わったのは瑞希の方だ」とまで言ったのは、この場面において素晴らしく効果的でしたね。


ちなみにこれらの発言は、ロイの自殺理論でいう所の、「③自意識の高まり」に効いたのだと思います。

また、自意識の高まりについておさらいですが、瑞希は 「自分をどうしようもない奴だ」と感じていて、「こう思われたらどうしよう?」ということばかりを考えてしまう状況にあるのでした。

つまり全ての考えが、瑞希の認知の中に閉じているのです。
自分の性別がバレてしまったということから、
→皆に優しくされる→関係が変わってしまった→自分はそこにいてはいけない→消えるしかない(結論)

という所まで、自分で勝手に結びつけて考えている訳ですね(瑞希は、奏とまふゆにはまだ会ってすらないのに)

これらの状況に対して絵名は、「こっちの気持ちまで勝手に決めるな」と言い切ります。正論ですね。
そして瑞希は、その「当たり前のこと」に気づき、驚く訳です。

このようなシーン(気づき)が、間に何度も挟まる

ここは瑞希を自殺のプロセスから離脱させるのにあたって、すごく効果的な場面だったかと思います。

「実は変わったのは自分だったのか」
そう絵名にハッと気づかされたことで瑞希は、自分の認知が絶対じゃないことにもまた気づき、「自意識の高まり」もまた軽減されていく訳ですね。

別に狙ったやったことではないでしょうが、ちゃんと絵名が本音をぶつけたことで、瑞希の認知が修正されたのは間違いないです。

ただし、私たちが「死にたい人」と相対した時に、これらの働きかけを狙ってやるのは難しいと私は思います。

これは、少しバランス感覚を間違えば、単にこっちの論理で相手を否定するだけになってしまうので、この点については慎重にいきましょう
(できるならば、専門家に任せましょう)

ただ、「自殺者の頭にはそういう認知の歪みがあるのかもしれない」ということについては、理解しておいて損はないと思います。
第2章でもまとめた特徴を知った上で、自分たちが死にたい人のために出来ることはなんなのか、考えてほしいですね。

また、これは特に一個人の意見なのですが、何度も繰り返すとおり、「できない約束はしない」というのも大事な対応の指針かと思います。

私たちは、目の前の誰かに「ずっと生き続けてほしい」のだ、ということを考えれば、小手先のテクニックは通用しないのは明らかなのです。
(自殺を食い止めるために、時間を稼ぐ方法が有効だということまた別の話です。つまりここでは、サステナブルな関わり方をしようという話をしています)

以上から、普段の関わりが大事なのかなというのが、月並みにはなりますが本noteの結論です。


壊れたままで 進んで行く 世界の中
それでもふたりで 息をしている

という歌詞で今回の書き下ろし楽曲(余花にみとれて/keeno)は終わりますが、本当にその通りですね。

これからどんな理不尽や傷つきが待っていたとしても、絵名と瑞希はずっと一緒にいるのです。いや、「息をし続ける」のです。

瑞希にとっては、今までずっと、生きることが当たり前じゃありませんでした。それを変えようとしてくれたのが絵名でした。

そしてそれは、他でもない瑞希自身が、ずっと欲しかったけど諦めていた、夢のような未来だったのです。

瑞希のサイストより一部抜粋

以上の、「息をする」ことの大事さを再確認して、このnoteは閉じようと思います。

4. おわりに(感謝)

皆さま、最後まで読んでいただきありがとうございました!!
実は今回のnoteも14000字を超えてしまいました。ダラダラ書くのは自分の悪い癖です。

にも関わらず、最後まで読んでくださったこと、あらためて感謝申し上げます。

自殺の問題については、うまく説明出来ていたかあまり自信が無いです。そのため分かりにくい所や違和感がある所があれば、遠慮なくコメント等を送っていただけると助かります。

本当に絵名は、すごいことをしたと思います。その点について、少しでも伝えられていたら幸いです。

また、これからのニーゴが本当に楽しみです。とにかく、皆がまた一緒になれてよかった、絵名と瑞希が友達になれてよかったです。

ではまた会いましょう!
皆さん、良きプロセカライフをお過ごしください👍

引用文献
(といっても自殺は専門じゃないので、本当に文献の調べは甘くて、参考レベルです。ご了承ください)
・足立 知子・古橋 忠晃・河野 荘子(2014). 希死念慮を抱く大学生の自殺リスク要因についての検討-場面想定法による他者への自殺の共感性の高さと相談相手に関する考察. 精神医学, 56(11), 941-950.
・Berring, J. (2018). Suicidal:Why We Kill Ourselves. University of Chicago Press.
(べリング, J. 鈴木 光太郎訳(2021). ヒトはなぜ自殺するのか-死に向かう心の科学. 化学同人.)
・中森 弘樹(2022). 「死にたい」とつぶやく-座間9人殺害事件と親密圏の社会学. 慶應義塾大学出版会.

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